「カラマーゾフの兄弟」を読んで、その情熱と苦悩と混沌に満ちた小説世界に心を絡め取られながら、一方では、折に触れて親しんできた「歎異抄」を改めて開き見ることとなった。またキリスト教にはどうしてもなじめず敬遠しっ放しだった私だが、少しばかり知りたいという心が動いてきた。そして思い出したのが、20年ぐらい前に読んで「良書」の印象が消えないまま(本でも何でも廃棄癖のある私が)本棚の隅に残していた「イエスと現代」(NHKブックス)だった。改めて読み始めて、「良書」の印象が鮮やかに拡大してきた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/79/05/8d729f1c87ba62210ee9d168336a08f8.jpg)
イエスはもはや存在しないし、歴史家の提供するイエス像も不確かさを免れない。しかし、私達は、今日直接に、イエスをあのようにあらしめた超越者の働きかけに触れることができるのだ。
私達はそれをイエスとは区別して(切り離すのではない)、キリスト教会の内外を問わずあらゆる人間に及んでいる超越者の働きと考える。それは現代人があまりにも容易く見失ってしまいがちなものであるが、それにもかかわらずあらゆる人に働きかけている現実なのだ。(P24)
このように語る八木誠一には、キリスト教になじめない私であっても、それなりに付いていくことが出来そう・・
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イエスはもはや存在しないし、歴史家の提供するイエス像も不確かさを免れない。しかし、私達は、今日直接に、イエスをあのようにあらしめた超越者の働きかけに触れることができるのだ。
私達はそれをイエスとは区別して(切り離すのではない)、キリスト教会の内外を問わずあらゆる人間に及んでいる超越者の働きと考える。それは現代人があまりにも容易く見失ってしまいがちなものであるが、それにもかかわらずあらゆる人に働きかけている現実なのだ。(P24)
このように語る八木誠一には、キリスト教になじめない私であっても、それなりに付いていくことが出来そう・・
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