みつばやま小零庵だより

宇宙の塵、その影のような私ですが、生きている今、言葉にしたいことがあります。

春立つ日の想起

2013-02-04 18:00:19 | 八郷の自然と風景

菜園でジャガイモの畝の準備を始めました。種藷を埋めるのは来月の予定ですが、元肥に用いる落葉堆肥が未熟なので、早めに耕してから土中で熟成させることにしています。

Dscn31449年前のこの季節にも、私はやはりジャガイモの畝作りのために鍬を振っていました。土の様子を一心に見ながら。そのとき何か、周りの空気が動く気配を感じて、弾んでいた息を吐きながら視線を前方に移しました。

最初に視界に入ったのは、誰かの両足元でした。ハッとして目を上げると・・そこに息子が立っていました。母親の資格に乏しい私には、思うように会うことが出来なかった息子です。息子は、その父親の死を私に告げるために来てくれたのでした。

その人を愛していた、とは言い難い私ですが、その死はやはり衝撃でした。否、今でも衝撃であり続けているのかも知れません。怨みも憎しみも、その感情の様相は愛しみに共通するものがあるようです。

Dscn3133新聞の折り込みチラシに地図の広告がありました。都会の鳥瞰図には「眺めていたい」などと書き込まれていますが、いつ大地震が起きるやもしれぬところに、極度に密集して人々が暮らしていることを、改めて怖ろしく感じます。

Dscn3131横浜の鳥瞰図の中の「山下公園」の名に目が止まりました。

Dscn3134_4早春のころに、二人で山下公園の一角を訪れたことがあります。
手元に残っている写真では、この過去の私はそれなりに幸せそうに見えます。遠い過去の私は、今の私にとっては「他者」、それも不在の他者のように感じられます。

Dscn3127過去とは想起である、という大森荘蔵の著書「時間と自我」(青土社)を読んでいたら、窓辺から小鳥たちの声! エナガの群れ(6羽いました)が口早にお喋りしつつ、庭の木々の樹皮をつつき、枝から枝へ飛び移り、やがて去ってゆきました。

小鳥たちは、時間とか自我とかには無縁で、(いとも簡単に死んでしまいますが・・)生きている間は死とも無縁で、まさに懸命に生きているから、あんなに美しいのでしょうか。


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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
余計なお世話でしょうが、ああ、ついに、大森荘蔵... (守拙)
2013-02-04 22:42:55
余計なお世話でしょうが、ああ、ついに、大森荘蔵の本を手になさったんですね。私も、本棚から「時間と自我」を取り出し、奥付を見たら第1刷は1992年とありました。初めて読んでから20年以上経ったのか・・・。「想起」とも言えぬただただ茫漠とした気持ちになりました。
哲学って、私のような気楽な読書人には幾つになっても面白いけれど、それにしても、本当に「浮世離れ」したことばかり考えているんですね。その主題にしてももその思考法にしても、です。そもそも考えてばかりで生きるわけにはいかないだろうに…。
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守拙様 (korei)
2013-02-05 19:13:20
守拙様
 県立図書館蔵のこの本を、公民館を通して借りました。まだ読了していませんが、凛とした気配のある論考ですね。文章表現の見事さも際立っていて、辛辣な揶揄が散見されるのも、いわば香辛料として興趣を湧かせてくれます。ただ、それにも拘らず(と言うべきか、それとも、だから、と言うべきか、)読後感としては「心動かされた」ということにはならないような・・・
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