カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

正義で物事を語る限界。または脱却から始めるべきこと

2011-08-08 | culture

 テレビを見ていると、原爆投下は戦争を早く終わらせる為であった、という考え方について議論をしていた。ああ、またか、とは思うものの、これはアメリカ人の自分を納得させる為の信仰なのだと思う。信仰だから仕方ないのかというと、そう簡単に片付けられないから厄介なのだ。そのままそのような信仰を抱いていることは、どうにも納得できないし許せない。それは普通に多くの日本人が抱いている心情であろう。
 しかし良く考えてみると、現代社会においては、アメリカ人だからというより、そのような考え方をするのは立場の違いというような気がしないではない。だがお互いに歩み寄れないのは、お互いにその非人道的な行為を認められないという共通の心情から派生している対立なのだ。
 終戦間際に核の人体実験をやりたかったのは間違いなさそうに感じられるし(そう推論せざるを得ない背景やデータが多すぎる)、しかしそんなことを人道的に認められないというのは、当時の米国人のほとんどが共有できる常識でもあったろう。しかし、やはり結果的に原爆は2度も投下されるに至った。
 沖縄戦の米国人の犠牲者の多さもその理由にあるというのは、その通りではあろう(しかしその十倍の犠牲が沖縄の人にはあったわけだが)。長期化すればするほど、そのような泥沼から抜けられない恐怖というものはあったろう。実際核を使用しないベトナムやアフガンなど、圧倒的な力の差がありながら簡単に終結しないことは、後になっても検証出来ることではあるように思われる。だからこそ戦争というのは不毛なのだが、始めるときは何故かそのことは忘れてしまうというのが、過ちが繰り返される理由だろう。
 問題は、たとえそうであっても、そのことを理由にして納得してしまう世論があることに、たとえ戦争であろうとも無差別に犠牲になった側の人間は、納得させられるわけにはいかないということである。よくもまあそのような残酷なことを、平気で日本人に向かって口にすることが出来るものだ。中には(原爆投下で)多くの日本人の命まで救ってやったのだから感謝するのが当たり前だと言いたげである。それで納得できる方が人間としてどうかしているのだけど、そのことにはぜんぜん関心が及ばないように見える。
 ただ、米国人のほとんどが、それでも原爆投下を正当化せざるを得ないのは、むしろその非人道的な行為を認められないからに他ならない。戦闘の長期化にうんざりさせられていたし、勝つことが明確なのに日本人は理屈に合わないしつこさで交戦をやめそうにない。いわば、負けているのに負けを認めていない相手に分からせる手段としては、仕方ないと思いたいということだ。早くそのような状態から抜け出してしまいたい。それはひとえに、自分自身の心情を救済する道なのである。更に人間性をどんどん失っていく自分自身を、注視できないという弱さなのかもしれない。
 そのような過ちを犯さざるを得なかった戦争の狂気というものが、原爆投下の実情なのだろうと思う。ただ、それを認めるというのは人間的につらいのだろう。だから負けた日本の人間には反省を求め、自らは反省したくない。何故ならそのような状態におかされてしまう元の戦争を始めたのは日本ではないか、ということなのかもしれない。もちろんその前に日本が戦争をせざるを得ない状態を作ったことは、さらに忘れているわけだが…。
 せめて、仕方なかったと思わざるを得ない程追いつめられる恐怖の戦争のために、原爆投下という悪夢の選択をしてしまった、という文法の上で語られる問題になって欲しいというのが、多くの人の願いなのではないかと思う。是が非かという問いの立て方に、いつまでも不毛な議論が続くという結果を招いている原因があるように思う。そのような最悪の不幸な犠牲の上に戦争の終結があったというのであれば、日本人の多くも、投下されたことに納得がいかないまでも、人間の業の恐ろしさを受け入れて考えることが出来るようになるのではなかろうか。恐らく今後も人間のそのような恐ろしさの本質は、変わることなく持ち続けていくことになる。それが人間であるという事実の上に、逃れられないからこそ注視していく必要があるのだと思う。そして、そのことを知るというのが、戦争を伝える意義なのではなかろうか。
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