宋文洲さんがツイッターで「経済が悪いのは政治のせいだという人がいるが、中国はどうなのだ」というような意味のことをつぶやいていた。なるほど。
しかし日本の場合、政治が経済の邪魔をしているにもかかわらず経済はそれなりに頑張っていた印象は強い。もちろんその経済も先行きは限りなく怪しいわけだが。これ以上政治が邪魔をしなければ、なんとかなるのではないかという期待はあるが、恐らくその願いがかなえられる可能性は極めて低い。そのうえ日本の企業の多くは、政治に振り回されている以上に、さらにその根本的な立ち位置として大変な危機を迎えているようにも見える。グローバル化でなんとかなるということでもなく、体質として何かを打開すべき時なのであろう。その何かは言いたくない。もう少し小さいことをいうと、目先のことをもう少し頑張っても、将来の姿に決定的な打開策が見えてこないことだ。それでもやらないよりはやらなければということに尽きるわけだが。結局今のままでは駄目だというのは過去もそうだったわけで、成功したという方法が万能ではないということになっているのだろう。
「政治家のレベルは国民のレベル」というのもよく聞く言葉だが、さて、本当にそうなのかというのは考えどころである。そのような面ももちろんあるにせよ、今暴動の起きている英国などは、国民のレベルは低いが、政治はレベルが高いように見える。その理由までは分からないのだが…。もちろん、もともと暴れん坊の国であるというのは以前より変わりがなくて、彼らはフーリガンの文化があるだけのことかもしれないが。それにしても一般大衆とエリートとの差が大きすぎはしないだろうか。
日本は文化的には実は欧米より個人主義なのだが、会社という組織は必ずしもそうではない。そうではないが、時々強い個性も育てる。それはその圧力を跳ね飛ばすほどの力のあるものしか、組織の力を跳ね飛ばせないからかもしれない。多くの小粒のものは出る釘で叩かれるが、結果的に出過ぎているものは叩けなくなるのだろう。
もちろんアメリカだってたぶんそれは同じことで、実際には保守的な社会であるのに、新しい力がすぐにでかくなって席巻してしまうということでもあるのだろう。日本から見るとあんがい画一的で、バーベキューしたりカウチポテトしたり、そんなようなもので楽しいというだけのように見えなくもない(もちろん、それも楽しいが)。
話が遠くなってしまったが、世論のレベルはどこ国であってもそうたいした違いは無いのではないかという感覚はある。先日観た古いイタリア映画であっても、大衆の欲求は昔からゲスである。本来は幅があるが、単純に言ってみると、まあ、そんなものであろう。ただ、政治の舞台になると、ちょっと聞こえてくるものは何だか違う。米国のブッシュ・ジュニアは馬鹿に見えたが、敵対するメディアが下品だったような気もするし、クリントンだって少なくとも馬鹿に見えたことに違いは無い。しかしそれでも日本のそれとはまだましというような感じもあって、やはり違いそうなのである。それは批判があっても、何かを決めるという態度がはっきりしている違いではないかと思う。次の選挙で負けようとも、とにかく決めることを説得しようとしている。日本だってそうじゃないかという声もあるだろうが、日本だとちゃんとした専門家の意見を聞いたのか、というようなことになっている気がする。もちろんそれは間違いではないが、法律を決める専門家は、政治家では無いのだろうか。
ああそうか。政治の専門家のようになった人が、皆悪くなったように見えるせいか。結局素人に手に負えない問題を、素人が相手にしているように見えている現状が諦めになってしまったのだろう。それでもなんとなく維持できている現在を思うと、システムとしての日本というのは、本当に耐性が強すぎるのであろう。もちろん、いつまでもつのかという実験をしても仕方ないのであるけれど…。