カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

原罪を背負っているから生きられる

2011-08-11 | 境界線

 子供の頃多くの先生たちから「人間が動物と違うのは、道具を使うことだ」と教わった。進化した人間だけが唯一道具を使うまでになったのだという幻想だった。もちろんチンパンジーは道具を使うらしいとか、(少年というのは動物好きなので、動物の知識はえてして大人より上ということが多いのだ)子供なりに知識を既に持っており、変だなあ、と思っていた。その後道具を使うらしいのはいろいろいることが分かっており(昆虫だって使うらしい。考えようによっては植物だって)、人間と動物との違いという単純なロジックは、なかなか立てづらくなっているように見える。ほとんど完全に大きな違いがありそうでいて、単純に区切りはつけづらいものらしいのだった。つまり人間は動物であり、他の生き物たちとそんなにたいした違いなんて無いのだが、その少しの違いがしかし、大きな違いでもあるらしいという変なことになっている。
 さて、先日カラスがいかに賢いかという番組を見ていて、やはりこの鳥は驚くべき知性の持ち主であることに感心したのであった。人間が理解できる程度の道具の使い方は自在であり、餌を獲得する手段としては、様々な道具の使い手であることもよく分かった。恐らく人間の理解できない程度の、知性の使い方もしているに違いない。調べようによっては、今後も人間を驚かせてくれるに違いない。
 そうしたカラスの様々生態の中で特に心を打たれたものは、どうもカラスは仲間の死を弔うという行動を取るらしいということだった。仲間が不慮の事故等で死んでしまうと、その遺体のそばの木の枝などに集まり一時間ほど佇んでいるのである。いつもと明らかに雰囲気が違い、泣き声を抑えその死を悲しんでいるように見える。
 カラスには血縁関係を中心に親密度が違うらしく、単なる大集団以上の近しい小集団のつながりも強い。子育てもツガイだけでなく、先に大きくなった子供まで手伝うことが分かっている。傍若無人の振る舞いを見せているように見えて、やはり厳しい自然の中で生きていく中で、多くの犠牲や被害を受けながら、懸命にひたむきに生きているのである。恐らくその見た目と、賢いがゆえに狡猾なふるまいに嫌われることが多いと思われるのだが、仲間や親から伝えられたことを代々下の世代へ伝えながら、ある種の文化的な行動を会得しているようにさえ見てとれる。カラスであるから人間から殺されることがあっても誰も気に留めることは無いのかもしれないが、彼らはそのような悲劇にあえば、少なくとも嘆き悲しみ、恨みを持つのではなかろうか。もちろん人間の感情に照らし合わせてみてのことだから、ひょっとすると別の感情もあるのかもしれないのだが。
 しかしながらそのような考えも、実をいうと人間のエゴではある。彼らが賢かろうとなかろうと、ひとしく敬意の持てない人間こそが、人間中心に物事を見ている証拠なのである。僕自身は人間のように死を弔うように見えるカラスに敬意を抱くが、そのような感情は、あくまで人間のような心情として共感があるからに他ならない。人間のように死を弔う感情が無くとも、他の動物たちが下等だということはあり得ない。また、下等とまで思わなくとも、実は命の重さに何の差も無くて当然のことである。その差があるのは、あくまで人間の都合に過ぎないということだ。確かにそうであっても人間社会の測りは存在するのも現実であるから、人間と等しく敬意を持つことは出来ない見方も当然であるにせよ、そうであるからこそ、そのような矮小な人間の感情の上だけの問題であるにすぎない。しかしながら、いくら理屈をつけようと、人間は他の生命の命を奪い生きていくより他に道が無い。そのような原罪を背負っている以上、少なくとも相手のことを知りつつも敬意を抱き続けることが大切になってくるのではなかろうか。
 結局現代人は科学の力を借りて多くの生物たちの謎を解いているのであるが、そうであるにもかかわらず忘れてしまっていることも多くなってしまった。賢いカラスに感心しながら、矮小な自分を戒めることにしよう。もちろんそのようなことを他の人に強要しようなどという感情は僕には無い。分からなければ分からなくても何の問題も無い。何故ならそれこそが、人間の持つ原罪であると考えているからである。
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