カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

やらせ体質はいまだに何ら変わりがない

2011-08-18 | 境界線

 子供の観ているテレビにケチをつけるので、すっかり茶の間の嫌われ者なのだが、それにしても本当に民放の番組は酷いものが多いと思う。だから普段は自分の意志では見ないが、やはりしかし子供にとってはこのような番組が面白いらしいことは不思議である。自分も若いころは見ていたくせに卑怯な態度だが、大人になってみると腹が立つのだから仕方がない。そんなに潔癖な性格では無いのだけれど、明らかな誘導や嘘や偏見に満ちているものを黙って見ているのはつらいのである。ふざけていたり視聴者を騙す意思があるのであれば、それはそれでかまわないのだけれど、しかし制作側は、そのことに無頓着なまま不思議現象を演出しているようにも見てとれて、罪深さを感じるのであろう。
 ある番組では不思議な力を持つ人形の話であった。その人形の力で様々な境遇の人が、次々に結婚が出来たというのだった。さてどのようなものかとその成り行きを素直に見ると、人形の力で結婚できたという根拠が何もないのである。適齢期を迎え本人も結婚を希望している男女が、自然に順番に結婚していったという事実しかそこには現わされていない。人形が導く方向に行くと理想の人が居たとか、この人形を持っていなかった人が結婚できなかったとか、人形を手にしたとたん自分を見染める人が現れてプロポーズをしたとかいうことは一切起こらない。しかし当事者たちは何故か人形の力を信じて結婚にこぎつけたのだと考えるようなのだった。中には人形を貰ってから4年後にやっとプロポーズにこぎつけた人もいたりして、時間軸がバラバラである。しかし何故かそのエピソードを見ている会場の人々が、不思議そうに感動するのだった。そのように感じてしまう人々を見て、さらに不思議な気持ちになるのだった。
 唯一効果のありそうな出来事は、その人形を持つ人に妙なプレッシャーがかかり、婚活に励むようになったというような個人的な努力の表れであった。やることをやって結果を掴んだということなのだろう。親や知人に急かされるのであれば煩わしいが、人形の力に急かされるということになると、あんがい素直に従うという心理もあるのかもしれない。
 この番組で分かることは、人間は暗示にかかりやすく根拠のない物事を平気でつなげて物語をでっち上げる力を持っているという証明である。そのような性質も持った生きものが人間であるということを言いたいのであれば、そのサンプルとして使える材料とはなるのかもしれない。愚かで哀れなことではあるが、そのようなことを知って生きていくことが、何かの役には立つのかもしれない。
 それにしても今後誰かがこの連鎖を止めることにはなるのだと思うが(それともいつの間にか忘れるか)、そうなるとそのような力を曲げるほどの激しい力を持つ人間であるということを考える人が出てくる可能性がある。やらせには敏感に文句を言う人がいるというのに、このような偏見や明らかな誤解を正そうという人は少ないらしい。
 子供を相手にする商売だから許されるという倫理が、テレビの世界にはあるのだろうか。そのような驕りこそ、人間として正す勇気が必要な時なのではなかろうか。
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自由の束縛から閉塞への脱皮

2011-08-18 | net & 社会

 何をつぶやいてもいいし、もともと140文字で大した論理展開ができるわけでもないし、誤解を恐れることなく感想をつぶやけるという手軽さが何よりの魅力であるわけだが、「仕事なう」などの個人的なつぶやきをつぶやく前に、ふと、はたしてつぶやくべきことなのかという疑問がわくようになると、とたんにその自由さが逆に面倒になっていくように思う。それでも慣性でつぶやいているうちには考えないでつぶやけるのだが、一度疑問に思った事を考え出すと、キーボードをたたく前に画面を閉じてしまったりしてしまうのだ。その上やはりありふれた個人的つぶやきに対して、反応が返ってくることはまれである。大袈裟に言うと宇宙空間に反響なく鳴る音のようなものなのではなかろうか。
 その点フェイスブックに移行した多くのつぶやきは少し違うように思う。知った人の個人的なつぶやきが、知っているからこそ親しい共感に変わるものがある。その時食べているめしの写真やその人が置かれている状況について、なんだか簡単に「いいね!」のクリックが出来てしまえるような気がする。そのまま画面を閉じてしまっても、その「いいね!」に対する相手の反応が返ると、メールでつぶやきのお知らせが来る。そういう何げない対話の応酬が、やはり普通の会話のような親しみを感じさせるのかもしれない。ツイッターの持つ不特定多数の広がりへの期待と、フェイスブックの持つ親しみの連鎖の勝負の分かれ目がそこにあるのだろう。
 もちろん使い分ければいいだけの話なのだが、つぶやく内容についてはほとんど同じものであるのであれば、やはり反応が返りやすいものの方にウェイトが移ってしまうのは必然ではなかろうか。ネットのように開かれた中での最小限に閉じられたコミュニティが、皮肉にもこれほどの力を持つに至るというのは、人間のもともと持っている社会性との関係とも似て、適正という範囲を規定しているのかもしれない。
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