カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

今日はたなくじの日

2011-08-01 | 雑記

 不必要に焦って早くシャッターを切ってしまった。これじゃ用をなさない。





 気を取り直して。しかし早とちりしてはならないそうで…。





 ということで、「ところてん」に落ち着いてみようと思いました。
 
 聞くところによると今日は「肺の日」なんだとか。煙草のみの人はたくさん吸ってくださいね。
 そうであるなるなら、「ハッピイの日」でもあるね。と誰かが言ってました。なるほど、今日はその方がいいかもしれないですね。
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カンディンスキーを観に行く

2011-08-01 | 感涙記

 カンディンスキーを観に行った。抽象画が特に好きということでも無いようだけど、何故かカンディンスキーが昔から好きなのだ。藤子不二雄がマグリット好きというのは有名だと思うが、たぶんそのような頃に不条理な絵というのに興味を持ったのがきっかけだったと思う。そういう中でカンディンスキーの絵を正に「発見」したような気になった。当時適当に有名でもなさそうなことと、近代絵画よりは古い感じのくせに、しかしやっぱり斬新、というのがいいと思った。それに何より、見ている気分が何故か楽しいという感情に結びつくというのが不思議で魅力的なのだ。どうしても自分では説明できないのに結果的に楽しくなれるというのは、恐らくカンディンスキー自身が狙っていることでもあって、それって凄いことじゃないか、と思ったわけだ。その後しばらく忘れていたけど、池谷裕二の本を読んでいて、彼もカンディンスキーが好きだというのを見つけて、なんだかものすごくうれしくなったのを覚えている。脳のことを研究している人でも(だからこそかもしれない)、このようなカンディンスキーの魅力に取りつかれてしまうのだ。
 でもまあ、いつもいつも思い焦がれているようなことでも正直言って無かったのだけど、山口県立美術館にやってくるというので、かなり気になっていた。近くにやってきたとはいえ、それなりに遠い。しかし子供たちは夏休みのはずだし、つれだすにはいい機会じゃないか。願わくば近くの温泉場にでも一泊旅行なんかできるといいな、と考えたわけだ。しかしながらそんな思いつきはもろくも崩れる。子供たちだってそれなりに忙しいし、全員が揃って一泊できる予定がつかないことが判明する。縁の無い間柄だったと諦めるより無いな、と思っていたところだった。
 何の夏休みの予定も無いなんてつまんないじゃないかと子供のように駄々をこねていたのかどうか、日帰りだったら行けるんじゃないかという話に突然なった。じゃあ明日の日曜じゃなきゃ難しいようだということらしい。それでも次男坊は既に予定があるという。しかしまあ行ってくれば、という大人の態度である。むむ、これは脈が出てきたしめしめということで、そのまま僕は深酒して寝てしまった。
 朝からも本当に行けるのかどうかちょっと怪しい雲行き。資源ごみを出す日だし、出発はそれ以降だ。つれあいは予定通りご飯を準備できるかという問題もある。僕はいつものように風邪気味で、鼻水がなかなか止まらない。飲みながらうたた寝でもしてしまっていたのだろう。長男は、何だ、やっぱり行かないのか、と言ったらしい。たぶんそれが決め手になって、9時過ぎに出発できた。自家用車は長時間運転に不安があるので、車はある筋から借りることにした。距離にして約270キロあまり。往復540キロ小旅行である。
 無計画なりになんとかなるのは目的がはっきりしているせいである。とにかく美術館に絵を観に行くだけのことである。途中ひょっとして休館日なんかもあるんじゃないかという話になったが、夏休みの日曜にそれは無いだろうという話になった。ネットで調べるのが怖いのでやらなかったが、後でメモに開催期間と休館日が記されているのを発見して安心した。たどり着くのか不安が無いわけじゃないけど、たぶんどうにかなるだろう。事故さえ起こさなければいいのだ。
 ただひたすら走り続け、関門橋で記念撮影したりして目的地へ向かう。昼時になって飯も食わなくちゃいけない。結果的には偶然寄った喫茶店のような洋食屋さんで前売り券をゲットして美術館へ入館できた。
 事前にたいして下調べしていたわけでもないし、好きだと言ってもカンディンスキーに関することなんてほとんど知らない。抽象画以前の油絵なんかも観て、ちゃんとした絵も描けるんだな、などと思ったりした。しかしどんどん絵柄の線や色使いは崩れていき、子供でさえ描きそうにない展開を見せていくのだった。
 正直に言うと僕の好きなカンディンスキーは、厳密にコンポジション・シリーズ(といわれるもの)だったようで、今回は来ていないのだった。少し残念だったけれど、そんなこともぜんぜん知らないで好きだった思いも確認できたし、抽象画が生まれていく過程をなんとなく目の当たりにして、不思議な感動を味わえたのは確かである。見ているものは見ているが、どんどん感情的になっていくというか、そうしてそのようなある意味でデフォルメと再構築が力を持つまでに葛藤していく、人間の生々しい苦悩のようなものさえ感じられる。その後にあの不思議なオーラを発っする抽象画へと、変化を遂げていくのであろう。人間の発明というのは不思議なものだ。今となっては当たり前に抽象画の力を信じて描く人や観る人がいるわけで、しかしその発見をなんとなく信じながら完成させようとする人たちの思考錯誤が無ければ現代も無かったのではなかろうか。もちろん人間の可能性としては、誰かがいつかは成し遂げられたことかもしれないが、たとえそうであってもパイオニアとしてこの道を発見できたということに大きな価値があるように思えるのだった。
 それにしてもある意味で、久しぶりの酔狂を成し遂げることができたというのが何より楽しかった。付き合わされたつれあいに息子は、多少迷惑だったかもしれないし本当に楽しめたのかどうかも分からない。結果的にサザエさんのじゃんけんにも間に合って帰ることもできたし、強行軍なりにコンパクトな一日の出来事ではあった。それにまだまだ夏は終わってもいない。正直体は疲れたけれど、そういうものがまったく関係なくなる別の力が生まれたような、そんな気分なのである。
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