カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

正直めんどくさいです

2011-08-12 | 雑記

 昨日ある会議に出ていて、会場から様々な角度からの意見が出た。趣旨と逸脱したものも含めて、いまさら感のある根本問題まで火がついて、収拾が困難に思えた。僕は何故か役員になっていて、まったく先が思いやられる。大勢で物事を決めるのは限界があるな、と素直に感じたわけだが、考えてみると、それが民主的手続きであるわけで、実に効率が悪いからこそ成り立っているということなんだろうとも思った。もちろん根本問題としては、落とし所を見つけて合意しなくてはらならないのだが、ゴネる発言者に対しては、最終的に問題点は先送りにされるのが見てとれた。それが合理的判断なのである。
 システムとして何もやらないことを選択する理由は、このような民主的背景がある所為なんだな、とも思う訳で、これって危険思想だろうか。
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原罪を背負っているから生きられる

2011-08-11 | 境界線

 子供の頃多くの先生たちから「人間が動物と違うのは、道具を使うことだ」と教わった。進化した人間だけが唯一道具を使うまでになったのだという幻想だった。もちろんチンパンジーは道具を使うらしいとか、(少年というのは動物好きなので、動物の知識はえてして大人より上ということが多いのだ)子供なりに知識を既に持っており、変だなあ、と思っていた。その後道具を使うらしいのはいろいろいることが分かっており(昆虫だって使うらしい。考えようによっては植物だって)、人間と動物との違いという単純なロジックは、なかなか立てづらくなっているように見える。ほとんど完全に大きな違いがありそうでいて、単純に区切りはつけづらいものらしいのだった。つまり人間は動物であり、他の生き物たちとそんなにたいした違いなんて無いのだが、その少しの違いがしかし、大きな違いでもあるらしいという変なことになっている。
 さて、先日カラスがいかに賢いかという番組を見ていて、やはりこの鳥は驚くべき知性の持ち主であることに感心したのであった。人間が理解できる程度の道具の使い方は自在であり、餌を獲得する手段としては、様々な道具の使い手であることもよく分かった。恐らく人間の理解できない程度の、知性の使い方もしているに違いない。調べようによっては、今後も人間を驚かせてくれるに違いない。
 そうしたカラスの様々生態の中で特に心を打たれたものは、どうもカラスは仲間の死を弔うという行動を取るらしいということだった。仲間が不慮の事故等で死んでしまうと、その遺体のそばの木の枝などに集まり一時間ほど佇んでいるのである。いつもと明らかに雰囲気が違い、泣き声を抑えその死を悲しんでいるように見える。
 カラスには血縁関係を中心に親密度が違うらしく、単なる大集団以上の近しい小集団のつながりも強い。子育てもツガイだけでなく、先に大きくなった子供まで手伝うことが分かっている。傍若無人の振る舞いを見せているように見えて、やはり厳しい自然の中で生きていく中で、多くの犠牲や被害を受けながら、懸命にひたむきに生きているのである。恐らくその見た目と、賢いがゆえに狡猾なふるまいに嫌われることが多いと思われるのだが、仲間や親から伝えられたことを代々下の世代へ伝えながら、ある種の文化的な行動を会得しているようにさえ見てとれる。カラスであるから人間から殺されることがあっても誰も気に留めることは無いのかもしれないが、彼らはそのような悲劇にあえば、少なくとも嘆き悲しみ、恨みを持つのではなかろうか。もちろん人間の感情に照らし合わせてみてのことだから、ひょっとすると別の感情もあるのかもしれないのだが。
 しかしながらそのような考えも、実をいうと人間のエゴではある。彼らが賢かろうとなかろうと、ひとしく敬意の持てない人間こそが、人間中心に物事を見ている証拠なのである。僕自身は人間のように死を弔うように見えるカラスに敬意を抱くが、そのような感情は、あくまで人間のような心情として共感があるからに他ならない。人間のように死を弔う感情が無くとも、他の動物たちが下等だということはあり得ない。また、下等とまで思わなくとも、実は命の重さに何の差も無くて当然のことである。その差があるのは、あくまで人間の都合に過ぎないということだ。確かにそうであっても人間社会の測りは存在するのも現実であるから、人間と等しく敬意を持つことは出来ない見方も当然であるにせよ、そうであるからこそ、そのような矮小な人間の感情の上だけの問題であるにすぎない。しかしながら、いくら理屈をつけようと、人間は他の生命の命を奪い生きていくより他に道が無い。そのような原罪を背負っている以上、少なくとも相手のことを知りつつも敬意を抱き続けることが大切になってくるのではなかろうか。
 結局現代人は科学の力を借りて多くの生物たちの謎を解いているのであるが、そうであるにもかかわらず忘れてしまっていることも多くなってしまった。賢いカラスに感心しながら、矮小な自分を戒めることにしよう。もちろんそのようなことを他の人に強要しようなどという感情は僕には無い。分からなければ分からなくても何の問題も無い。何故ならそれこそが、人間の持つ原罪であると考えているからである。
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みんな政治が悪いのか

2011-08-10 | 時事

 宋文洲さんがツイッターで「経済が悪いのは政治のせいだという人がいるが、中国はどうなのだ」というような意味のことをつぶやいていた。なるほど。
 しかし日本の場合、政治が経済の邪魔をしているにもかかわらず経済はそれなりに頑張っていた印象は強い。もちろんその経済も先行きは限りなく怪しいわけだが。これ以上政治が邪魔をしなければ、なんとかなるのではないかという期待はあるが、恐らくその願いがかなえられる可能性は極めて低い。そのうえ日本の企業の多くは、政治に振り回されている以上に、さらにその根本的な立ち位置として大変な危機を迎えているようにも見える。グローバル化でなんとかなるということでもなく、体質として何かを打開すべき時なのであろう。その何かは言いたくない。もう少し小さいことをいうと、目先のことをもう少し頑張っても、将来の姿に決定的な打開策が見えてこないことだ。それでもやらないよりはやらなければということに尽きるわけだが。結局今のままでは駄目だというのは過去もそうだったわけで、成功したという方法が万能ではないということになっているのだろう。
 「政治家のレベルは国民のレベル」というのもよく聞く言葉だが、さて、本当にそうなのかというのは考えどころである。そのような面ももちろんあるにせよ、今暴動の起きている英国などは、国民のレベルは低いが、政治はレベルが高いように見える。その理由までは分からないのだが…。もちろん、もともと暴れん坊の国であるというのは以前より変わりがなくて、彼らはフーリガンの文化があるだけのことかもしれないが。それにしても一般大衆とエリートとの差が大きすぎはしないだろうか。
 日本は文化的には実は欧米より個人主義なのだが、会社という組織は必ずしもそうではない。そうではないが、時々強い個性も育てる。それはその圧力を跳ね飛ばすほどの力のあるものしか、組織の力を跳ね飛ばせないからかもしれない。多くの小粒のものは出る釘で叩かれるが、結果的に出過ぎているものは叩けなくなるのだろう。
 もちろんアメリカだってたぶんそれは同じことで、実際には保守的な社会であるのに、新しい力がすぐにでかくなって席巻してしまうということでもあるのだろう。日本から見るとあんがい画一的で、バーベキューしたりカウチポテトしたり、そんなようなもので楽しいというだけのように見えなくもない(もちろん、それも楽しいが)。
 話が遠くなってしまったが、世論のレベルはどこ国であってもそうたいした違いは無いのではないかという感覚はある。先日観た古いイタリア映画であっても、大衆の欲求は昔からゲスである。本来は幅があるが、単純に言ってみると、まあ、そんなものであろう。ただ、政治の舞台になると、ちょっと聞こえてくるものは何だか違う。米国のブッシュ・ジュニアは馬鹿に見えたが、敵対するメディアが下品だったような気もするし、クリントンだって少なくとも馬鹿に見えたことに違いは無い。しかしそれでも日本のそれとはまだましというような感じもあって、やはり違いそうなのである。それは批判があっても、何かを決めるという態度がはっきりしている違いではないかと思う。次の選挙で負けようとも、とにかく決めることを説得しようとしている。日本だってそうじゃないかという声もあるだろうが、日本だとちゃんとした専門家の意見を聞いたのか、というようなことになっている気がする。もちろんそれは間違いではないが、法律を決める専門家は、政治家では無いのだろうか。
 ああそうか。政治の専門家のようになった人が、皆悪くなったように見えるせいか。結局素人に手に負えない問題を、素人が相手にしているように見えている現状が諦めになってしまったのだろう。それでもなんとなく維持できている現在を思うと、システムとしての日本というのは、本当に耐性が強すぎるのであろう。もちろん、いつまでもつのかという実験をしても仕方ないのであるけれど…。
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知事に恨みは無いが

2011-08-10 | 雑記

 長崎県人なので昨日9日は特別である。以前にも書いたが、黙祷するのはごく自然のことで、恐らく誰もが普通に心掛けていることだろう。昨日はちょうど車の運転中だったので、目的地に着いてから長崎市の方角に向けて手を合わせた。そのタイミングに黙祷出来なかったことが申し訳ないとも感じた。
 ところで敬愛するフジモトマサルさんのなぞなぞの名作に、このようなものがある。
http://www.1101.com/nazonazo/020910_nazo.html
 なかなか可愛らしいのだが、しかしやはり思い出してしまうのである。特にこの日で無くとも、この時間になるとなんとなく思い出してしまう。これってちょっとした罪なことのように思えて心が痛むのである。特に昨日においては…。
 しかしながらこれは、原爆や戦争についての心の怒りであると解釈することにした。思い出してしまうものは仕方がない。
 このような話は秘密にしておいてもよいのかもしれないが、心情を吐露して懺悔する次第です。
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正義で物事を語る限界。または脱却から始めるべきこと

2011-08-08 | culture

 テレビを見ていると、原爆投下は戦争を早く終わらせる為であった、という考え方について議論をしていた。ああ、またか、とは思うものの、これはアメリカ人の自分を納得させる為の信仰なのだと思う。信仰だから仕方ないのかというと、そう簡単に片付けられないから厄介なのだ。そのままそのような信仰を抱いていることは、どうにも納得できないし許せない。それは普通に多くの日本人が抱いている心情であろう。
 しかし良く考えてみると、現代社会においては、アメリカ人だからというより、そのような考え方をするのは立場の違いというような気がしないではない。だがお互いに歩み寄れないのは、お互いにその非人道的な行為を認められないという共通の心情から派生している対立なのだ。
 終戦間際に核の人体実験をやりたかったのは間違いなさそうに感じられるし(そう推論せざるを得ない背景やデータが多すぎる)、しかしそんなことを人道的に認められないというのは、当時の米国人のほとんどが共有できる常識でもあったろう。しかし、やはり結果的に原爆は2度も投下されるに至った。
 沖縄戦の米国人の犠牲者の多さもその理由にあるというのは、その通りではあろう(しかしその十倍の犠牲が沖縄の人にはあったわけだが)。長期化すればするほど、そのような泥沼から抜けられない恐怖というものはあったろう。実際核を使用しないベトナムやアフガンなど、圧倒的な力の差がありながら簡単に終結しないことは、後になっても検証出来ることではあるように思われる。だからこそ戦争というのは不毛なのだが、始めるときは何故かそのことは忘れてしまうというのが、過ちが繰り返される理由だろう。
 問題は、たとえそうであっても、そのことを理由にして納得してしまう世論があることに、たとえ戦争であろうとも無差別に犠牲になった側の人間は、納得させられるわけにはいかないということである。よくもまあそのような残酷なことを、平気で日本人に向かって口にすることが出来るものだ。中には(原爆投下で)多くの日本人の命まで救ってやったのだから感謝するのが当たり前だと言いたげである。それで納得できる方が人間としてどうかしているのだけど、そのことにはぜんぜん関心が及ばないように見える。
 ただ、米国人のほとんどが、それでも原爆投下を正当化せざるを得ないのは、むしろその非人道的な行為を認められないからに他ならない。戦闘の長期化にうんざりさせられていたし、勝つことが明確なのに日本人は理屈に合わないしつこさで交戦をやめそうにない。いわば、負けているのに負けを認めていない相手に分からせる手段としては、仕方ないと思いたいということだ。早くそのような状態から抜け出してしまいたい。それはひとえに、自分自身の心情を救済する道なのである。更に人間性をどんどん失っていく自分自身を、注視できないという弱さなのかもしれない。
 そのような過ちを犯さざるを得なかった戦争の狂気というものが、原爆投下の実情なのだろうと思う。ただ、それを認めるというのは人間的につらいのだろう。だから負けた日本の人間には反省を求め、自らは反省したくない。何故ならそのような状態におかされてしまう元の戦争を始めたのは日本ではないか、ということなのかもしれない。もちろんその前に日本が戦争をせざるを得ない状態を作ったことは、さらに忘れているわけだが…。
 せめて、仕方なかったと思わざるを得ない程追いつめられる恐怖の戦争のために、原爆投下という悪夢の選択をしてしまった、という文法の上で語られる問題になって欲しいというのが、多くの人の願いなのではないかと思う。是が非かという問いの立て方に、いつまでも不毛な議論が続くという結果を招いている原因があるように思う。そのような最悪の不幸な犠牲の上に戦争の終結があったというのであれば、日本人の多くも、投下されたことに納得がいかないまでも、人間の業の恐ろしさを受け入れて考えることが出来るようになるのではなかろうか。恐らく今後も人間のそのような恐ろしさの本質は、変わることなく持ち続けていくことになる。それが人間であるという事実の上に、逃れられないからこそ注視していく必要があるのだと思う。そして、そのことを知るというのが、戦争を伝える意義なのではなかろうか。
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天国の本屋 恋火

2011-08-05 | 映画
天国の本屋 恋火/篠原哲雄監督

 ここ数年花火大会当日は補導の見回りをしている。僕は担当の副会長だし、こういうことを正直に言ってはならないのだが、ほとんど意義を感じてはいない。しかしまあ、やることがあるから無意味でもやるというのは人間の性なので、役割をまっとうして見回りをしている。散歩にもなるし、他に参加している人といろいろ話もできるし、張り切っている人もいるから、見回り自体はぜんぜん楽しくないわけではない。その上花火も観ることが出来る。多くの人が屯していて、花火を思い思いに楽しんでいる。そういう人たちを暑いなあ、と思いながら眺めているのも生きているうちのことであろう。ああ、お役目がなければ麦酒飲みてえ。
 そうやって花火を見ていてこの映画のことを少し思い出した。なかなかシュールな設定の映画で、香川さんの演技以外感心することのなかったはずなんだが、とにかく花火のあがる映画だった。他にも花火のあがる名画はたくさんあるのだけど、今年はこれでよかったのだろう。原田芳雄も出ていたし、思い出すのにタイムリーだったのだろう。何故か天国の本屋は朗読をしてくれるらしいという、そういうところは良かったな。北海道で花火を見ることが、僕の一生の中であるものだろうか。そういうことを感じさせてくれる映画なのだった。
 今年の花火で残念だったのは、集合時間があるので、ということで、一番クライマックスのでかい花火を見ることなく帰らなければならなかったことだ。花火を鑑賞するために巡回補導をしているわけではないのだから、花火が終わった後の残った子供の様子を見ることが大切だろうと思うのだが、ドライに役割の時間を守りましょうという巡回態度に反論するような骨のある性格ではない。結果的にひときわ大きな爆発音を背中で感じながら集合場所までトボトボ歩いた。帰りはものすごい渋滞で、改めてみんな花火が好きなんだな、と思った。
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喜々津に行くなら

2011-08-04 | 掲示板

 訳あって喜々津まで行ってきた。行きはグリーンロードとレインボーロード(ともになんとも田舎くさい名前である。)経由。距離を測ったら36.1キロで48分かかった。朝方だったので順調であったのと、もともと車が少ないというのはもちろんあるだろう。
 用事を済ませて、帰りはひたすら34号線を上る。距離は33.4キロ。鈴田峠から久原まではノロノロということもあって時間は63分もかかった。その差は2.7キロ、15分。
 次回からはどうすべきか明確になった。
 ただし、最近は結構張ってるので、注意が必要だ。また、妙に遅い車が前にいると精神衛生上も良くない(また結構いるんですな、これが)。鈴田経由はほとんどノロノロだが、渋滞で全部が遅いと何故だかストレスは少ない。これは個人的な感覚なのだろうか?
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甘い生活

2011-08-03 | 映画
甘い生活/フェデリコ・フェリーニ監督

 いつかは観なくてはならないとは思っていた映画。30年くらい前から存在は知っていたのではなかろうか。先送りになってしまったのは、あんがい田舎のビデオ屋には置いてないことと、単に見つけられなかっただけのことかもしれない。名作だから観たいという気分に必ずしもならないわけで、縁遠い奴なんだとなんとなく感じていた。
 内容を説明してもあまり意味の無い類の映画で、奇妙だけどわけのわからない場面のつぎはぎで、筋らしい筋で見せるというより、音楽を聞くように感情で観るということが必要なようだ。廃退した人々を見事な映像美で描いた作品であると月並みに言っておく。非凡さは伝わるが、なんというか、それなりに退屈で観る者を褒めてやりたい映画という感じだろうか。しかしながら妙な余韻は残るのは確かで、貫禄は流石だな、とは感じる。
 そのつまらなさを楽しんで観たわけで、よくもまあこんな映画を作ったものだと感心する。そしてこれに感心する人が多いというのも流石だなあと思う。当時の人もびっくりしたろうし、今の僕たちだってそれなりにびっくりする。なんだってそんなに飲酒運転ばかりしなくてはならないのだろう。ゴシップ記事を書いたくらいでこんな生活が出来るなんて、いい時代だったのだろう。
 もうひとつ一貫して呆れてしまうのは、激しい女好きであるということか。男と女というのは惹かれあうものだというのはなんとなく分からないではないけれど、つまり節操がなさすぎる。実にかるく深刻に愛の告白を続けて関係を持っていく。長い付き合いも、危ういながら簡単に破綻しないようだ。観ている方はいいかげんにうんざりするわけだが、ほとんど病気という感じで追いかけまわしている。結果的に狙っている女でなくてもいいようで、人間というのは決まった時期に発情を迎えるわけではないのだという生態はよく理解できる。別段強がって言う訳じゃないが、このような女たちが欲しいとはぜんぜん思えないのだった。しかし主人公マルチェロは、おかまいなしに次々に溺れていく感じだ。何がそんなに寂しいのか、さっぱり良く分からない。たぶんつらいのだろうけど、自分を止めることが出来ないということなのか。
 まあ、確かにこのような感覚は、人間誰しも持っている苦悩なのであろう。古くは貴族しか味わえなかったものが、現代人は誰しもこの世界に行くことが出来る、もしくは陥ってしまう危険があるのかもしれない。ローマという都市だからというより、ニューヨークでもパリでも、または東京や上海でも、同じような人間はごろごろしていることなのだろう。皆楽しげに夜に舞い、そして深く悲しいのである。
 古く現代人の抱える問題はそう変化していない。そのような不思議な発見のある前衛的な名画と言えるだろう。すでに昔から現代人はちっとも変っていない。今の風俗と何が違うといのだろう。人間はこれからもそう簡単に変わるものではないと考えると、確かに何だか寂しいものである。基本的には感情を持ってしまった動物であるという現実から、逃れることは出来ないということなのであろう。
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今は買わないを買ってしまう

2011-08-02 | 境界線

 少し前から本を買う場はすっかりアマゾンになってしまっている。出張中に本屋に寄ることがあっても、持ち歩くための一二冊以外は、中身を見て後にネットで注文する。本は重いので、全部買うわけにはいかない。神保町の帰りに、買い物袋か何かを買って本を詰め込み宅急便で送ったりしていた頃が懐かしい。あれはあれでいい時代だったなあと思うものの、後戻りは出来ない。
 しかしながらアマゾンのカートも、時々整理しないと本が溜まり過ぎる。放っておくとすぐに数十冊溜まり出してしまう。とても全部を買うわけにもいかないし、クーリングオフの役割もあるような気がするので、少し時間が経つと「今は買わない」にさらに仕分ける。本は考えようによっては生ものだから時間の経過により安くなるものもあり、小説やビジネス本のようなものなら1円になったりするもするので、しばらく寝かせておくのである。もちろん思惑が外れて、逆に数千円に化けていくものもあるわけだが…。
 しかしながらその「今は買わない」も、どんどん溜まることになる。今度は数百冊の単位になっていく。そうなってしまうと、もう過去の何故買おうと思ったかという動機さえよく分からなくなっていく。時々クリックして商品の説明や中身検索やカスタマーレビューなどを見る。評判の悪いものがあるとつい買いたくなってしまうが(それだけ読者の心を動かす力があるということだ)、そもそもの動機が思い出せないと、やはり踏ん切りはつかない。そのうち段々飽きてきて、やっぱり放置しようかという気分にもなってしまう。
 やはり数が問題で、そういう動機の分かる範囲というのが、僕の場合250冊前後のような気がする。それを超えたあたりから、少しずつ記憶が怪しくなったりするようなのだ。だから250ラインになると自動的に少し整理することにしている。要は単純に、怪しいと思うものを容赦なく切るというだけのことである。
 切るというのは削除のことで、ざっとリアル本棚を眺めて最近の自分の傾向をおおむね頭の中に入れておく。すでに積読しているくらいだから、本当に今後買うつもりがあるのか自分に問うということである。そうして心を少し厳しいモードに高めたうえで、リストをバンバン切っていく。調子に乗るとそれなりに気分がいいけれど、中には逡巡し出して停滞することがある。却って食指が動いて単独注文で買ってしまったりして敗北を味わうこともある。でもまあ、このような買い物というのは楽しいのかもしれない。その上リストが減った充実感もある。「今は買わない」というのは要するに仕事を先送りしているようなもので、そういう仕事を済ませてしまったという充実感なのであろう。
 その後は連日本が届くので、包や箱を開けて中を覗く楽しい毎日である。結局目次を見るだけで廃棄するような本が無いわけではないが、やはり手にとって中身を見るというのが、本当の本の出会いという訳である。さらに最後まで読むような本は限られているのだけれど、こうやってお付き合いを済ませて赤ペンで埋まった本がまた別の本棚に並べられることになっていく。大袈裟に言うと、たぶんこれからの人生もこの繰り返しなのであろう。
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今日はたなくじの日

2011-08-01 | 雑記

 不必要に焦って早くシャッターを切ってしまった。これじゃ用をなさない。





 気を取り直して。しかし早とちりしてはならないそうで…。





 ということで、「ところてん」に落ち着いてみようと思いました。
 
 聞くところによると今日は「肺の日」なんだとか。煙草のみの人はたくさん吸ってくださいね。
 そうであるなるなら、「ハッピイの日」でもあるね。と誰かが言ってました。なるほど、今日はその方がいいかもしれないですね。
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カンディンスキーを観に行く

2011-08-01 | 感涙記

 カンディンスキーを観に行った。抽象画が特に好きということでも無いようだけど、何故かカンディンスキーが昔から好きなのだ。藤子不二雄がマグリット好きというのは有名だと思うが、たぶんそのような頃に不条理な絵というのに興味を持ったのがきっかけだったと思う。そういう中でカンディンスキーの絵を正に「発見」したような気になった。当時適当に有名でもなさそうなことと、近代絵画よりは古い感じのくせに、しかしやっぱり斬新、というのがいいと思った。それに何より、見ている気分が何故か楽しいという感情に結びつくというのが不思議で魅力的なのだ。どうしても自分では説明できないのに結果的に楽しくなれるというのは、恐らくカンディンスキー自身が狙っていることでもあって、それって凄いことじゃないか、と思ったわけだ。その後しばらく忘れていたけど、池谷裕二の本を読んでいて、彼もカンディンスキーが好きだというのを見つけて、なんだかものすごくうれしくなったのを覚えている。脳のことを研究している人でも(だからこそかもしれない)、このようなカンディンスキーの魅力に取りつかれてしまうのだ。
 でもまあ、いつもいつも思い焦がれているようなことでも正直言って無かったのだけど、山口県立美術館にやってくるというので、かなり気になっていた。近くにやってきたとはいえ、それなりに遠い。しかし子供たちは夏休みのはずだし、つれだすにはいい機会じゃないか。願わくば近くの温泉場にでも一泊旅行なんかできるといいな、と考えたわけだ。しかしながらそんな思いつきはもろくも崩れる。子供たちだってそれなりに忙しいし、全員が揃って一泊できる予定がつかないことが判明する。縁の無い間柄だったと諦めるより無いな、と思っていたところだった。
 何の夏休みの予定も無いなんてつまんないじゃないかと子供のように駄々をこねていたのかどうか、日帰りだったら行けるんじゃないかという話に突然なった。じゃあ明日の日曜じゃなきゃ難しいようだということらしい。それでも次男坊は既に予定があるという。しかしまあ行ってくれば、という大人の態度である。むむ、これは脈が出てきたしめしめということで、そのまま僕は深酒して寝てしまった。
 朝からも本当に行けるのかどうかちょっと怪しい雲行き。資源ごみを出す日だし、出発はそれ以降だ。つれあいは予定通りご飯を準備できるかという問題もある。僕はいつものように風邪気味で、鼻水がなかなか止まらない。飲みながらうたた寝でもしてしまっていたのだろう。長男は、何だ、やっぱり行かないのか、と言ったらしい。たぶんそれが決め手になって、9時過ぎに出発できた。自家用車は長時間運転に不安があるので、車はある筋から借りることにした。距離にして約270キロあまり。往復540キロ小旅行である。
 無計画なりになんとかなるのは目的がはっきりしているせいである。とにかく美術館に絵を観に行くだけのことである。途中ひょっとして休館日なんかもあるんじゃないかという話になったが、夏休みの日曜にそれは無いだろうという話になった。ネットで調べるのが怖いのでやらなかったが、後でメモに開催期間と休館日が記されているのを発見して安心した。たどり着くのか不安が無いわけじゃないけど、たぶんどうにかなるだろう。事故さえ起こさなければいいのだ。
 ただひたすら走り続け、関門橋で記念撮影したりして目的地へ向かう。昼時になって飯も食わなくちゃいけない。結果的には偶然寄った喫茶店のような洋食屋さんで前売り券をゲットして美術館へ入館できた。
 事前にたいして下調べしていたわけでもないし、好きだと言ってもカンディンスキーに関することなんてほとんど知らない。抽象画以前の油絵なんかも観て、ちゃんとした絵も描けるんだな、などと思ったりした。しかしどんどん絵柄の線や色使いは崩れていき、子供でさえ描きそうにない展開を見せていくのだった。
 正直に言うと僕の好きなカンディンスキーは、厳密にコンポジション・シリーズ(といわれるもの)だったようで、今回は来ていないのだった。少し残念だったけれど、そんなこともぜんぜん知らないで好きだった思いも確認できたし、抽象画が生まれていく過程をなんとなく目の当たりにして、不思議な感動を味わえたのは確かである。見ているものは見ているが、どんどん感情的になっていくというか、そうしてそのようなある意味でデフォルメと再構築が力を持つまでに葛藤していく、人間の生々しい苦悩のようなものさえ感じられる。その後にあの不思議なオーラを発っする抽象画へと、変化を遂げていくのであろう。人間の発明というのは不思議なものだ。今となっては当たり前に抽象画の力を信じて描く人や観る人がいるわけで、しかしその発見をなんとなく信じながら完成させようとする人たちの思考錯誤が無ければ現代も無かったのではなかろうか。もちろん人間の可能性としては、誰かがいつかは成し遂げられたことかもしれないが、たとえそうであってもパイオニアとしてこの道を発見できたということに大きな価値があるように思えるのだった。
 それにしてもある意味で、久しぶりの酔狂を成し遂げることができたというのが何より楽しかった。付き合わされたつれあいに息子は、多少迷惑だったかもしれないし本当に楽しめたのかどうかも分からない。結果的にサザエさんのじゃんけんにも間に合って帰ることもできたし、強行軍なりにコンパクトな一日の出来事ではあった。それにまだまだ夏は終わってもいない。正直体は疲れたけれど、そういうものがまったく関係なくなる別の力が生まれたような、そんな気分なのである。
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