名もなく貧しく美しく/松山善三監督
言わずと知れた名作。子供の頃には映画やドラマなどで観たような気がする。もちろんその後も何度となくリメイク作がつくられたのではなかろうか。しかしながら改めて見直してみて、思った以上に楽しい映画であることに気づかされて、却って驚いてしまった。
戦中戦後のただでさえ皆が苦労した時代にあって、聾唖者としてのハンディキャップを背負った人間の虐げられた貧困物語である。涙なしにはとても見られないし、実際そのエピソードの多くに激しい怒りと悲しみを覚える。しかし、そうでありながら淡々としたトーンと、夫道夫の図抜けた楽天主義と世間知らずの行動に、困らせられたり助けられたりするエピソードなどは、妙にコミカルで却って笑えるのである。
初めてのデートで動物園に行くが、戦争中に猛獣は危ないということで殺されてしまっており、動物なんていやしない。その帰りに駅員にキセルと勘違いされ押し倒され鞄の中の二つの生卵は割れてしまう。その悲惨な体験があって二人で助け合って生きる決心、つまり結婚を決意するというのも、後で二人で思い出して大笑いしてしまう。悲しいが楽しい。悲惨だから喜びも深い。そんなようなコントラストが交互に展開されて、まったく涙腺が忙しくなるのだった。
この映画は日本映画だが、聾唖者の会話を知るために字幕が多用されている。親しい会話であるのに字幕は丁寧語である。もちろん手話の世界にだって砕けた表現はあるだろう。しかし、その一見堅苦しい丁寧な物言いの字幕を読んでいくと、純粋な中でも健気にお互いを思いやるその心情がにじみ出てきて、観る者になんとも言えない感情を湧きあがらせる効果が発揮されている。その当時の日本人の多くが、初めて知る手話の世界。その画期的な紹介とともに、人間の持つ悲しさと力強さの両方に訴えかける作品になっている。何度も諦めかけ、遠慮し、哀しみ、絶望する。人並みに生きていくことは出来ないと思いながらも、それでもコツコツと生活を積み上げていく。
また、何度も苦しめられる悲惨な出来事の多くは、嫁ぎ先の家族であったり、実のきょうだいであったり、そして幼い子供からであったりする。特に子供から受ける反抗には、地獄の苦しみを与えられているように思える。このような思いをするために、さらに苦労して子供を育てなくてはならないのだろうか。
高峰の演技は静かだが、その深い感情を見事に演じきっている。外の世界の人間には、なんだか理解できない飄々としたところがあり、しかし内情は激しい葛藤とともに、ひたむきに生きようとしている。この映画を見た多くの人が、障碍というものが何であるのか、高峰を見て理解したことだろう。もちろんその後の現在であっても、この高峰の演技の影響があることが、何となく理解できるのではなかろうか。それほどこの映画は、今の日本に多くの影響を及ぼした社会現象なのではなかろうか。
この映画は、ただでさえ苦しい貧困というものと、さらにその世界を障碍を背負った人間が生きていくということを描いている。しかし、その一見特殊な世界を描こうとしていて、実に普遍的な人間のしあわせについても問いかけている。見ようによっては最後まで救われない気持にもなるのかもしれないが、僕には不思議と明るい印象も残ったのであった。残されたものは、少なくともこれからも悲惨な思いをしながら生きていくことになるのだろう。しかし例えそうであっても、その悲惨さをいつかは笑ってしまえるような強さを、人間は自ら持っているのではなかろうか。あの割れてしまった卵で大笑い出来てしまうように…。
言わずと知れた名作。子供の頃には映画やドラマなどで観たような気がする。もちろんその後も何度となくリメイク作がつくられたのではなかろうか。しかしながら改めて見直してみて、思った以上に楽しい映画であることに気づかされて、却って驚いてしまった。
戦中戦後のただでさえ皆が苦労した時代にあって、聾唖者としてのハンディキャップを背負った人間の虐げられた貧困物語である。涙なしにはとても見られないし、実際そのエピソードの多くに激しい怒りと悲しみを覚える。しかし、そうでありながら淡々としたトーンと、夫道夫の図抜けた楽天主義と世間知らずの行動に、困らせられたり助けられたりするエピソードなどは、妙にコミカルで却って笑えるのである。
初めてのデートで動物園に行くが、戦争中に猛獣は危ないということで殺されてしまっており、動物なんていやしない。その帰りに駅員にキセルと勘違いされ押し倒され鞄の中の二つの生卵は割れてしまう。その悲惨な体験があって二人で助け合って生きる決心、つまり結婚を決意するというのも、後で二人で思い出して大笑いしてしまう。悲しいが楽しい。悲惨だから喜びも深い。そんなようなコントラストが交互に展開されて、まったく涙腺が忙しくなるのだった。
この映画は日本映画だが、聾唖者の会話を知るために字幕が多用されている。親しい会話であるのに字幕は丁寧語である。もちろん手話の世界にだって砕けた表現はあるだろう。しかし、その一見堅苦しい丁寧な物言いの字幕を読んでいくと、純粋な中でも健気にお互いを思いやるその心情がにじみ出てきて、観る者になんとも言えない感情を湧きあがらせる効果が発揮されている。その当時の日本人の多くが、初めて知る手話の世界。その画期的な紹介とともに、人間の持つ悲しさと力強さの両方に訴えかける作品になっている。何度も諦めかけ、遠慮し、哀しみ、絶望する。人並みに生きていくことは出来ないと思いながらも、それでもコツコツと生活を積み上げていく。
また、何度も苦しめられる悲惨な出来事の多くは、嫁ぎ先の家族であったり、実のきょうだいであったり、そして幼い子供からであったりする。特に子供から受ける反抗には、地獄の苦しみを与えられているように思える。このような思いをするために、さらに苦労して子供を育てなくてはならないのだろうか。
高峰の演技は静かだが、その深い感情を見事に演じきっている。外の世界の人間には、なんだか理解できない飄々としたところがあり、しかし内情は激しい葛藤とともに、ひたむきに生きようとしている。この映画を見た多くの人が、障碍というものが何であるのか、高峰を見て理解したことだろう。もちろんその後の現在であっても、この高峰の演技の影響があることが、何となく理解できるのではなかろうか。それほどこの映画は、今の日本に多くの影響を及ぼした社会現象なのではなかろうか。
この映画は、ただでさえ苦しい貧困というものと、さらにその世界を障碍を背負った人間が生きていくということを描いている。しかし、その一見特殊な世界を描こうとしていて、実に普遍的な人間のしあわせについても問いかけている。見ようによっては最後まで救われない気持にもなるのかもしれないが、僕には不思議と明るい印象も残ったのであった。残されたものは、少なくともこれからも悲惨な思いをしながら生きていくことになるのだろう。しかし例えそうであっても、その悲惨さをいつかは笑ってしまえるような強さを、人間は自ら持っているのではなかろうか。あの割れてしまった卵で大笑い出来てしまうように…。