カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

譲り合いの精神

2007-01-15 | 散歩

 久しぶりに散歩する。久しぶりだと風景が少し変わっている。特段新しい建物が建っていたりするわけではないが、なんとなく違う。草の生え具合だったり、住宅に止まっている車だったり、路肩のコンクリート補修だったり。違いは小さなものだけれど、人の営みには微妙な変化がある。いつもなら変化が小さくてわからないのだろうけれど、久しく見ないと急に変化したように感じる。昔ながらのなじんだまちなどに何年ぶりに訪れるほどではないけれど、僕がいないうちに勝手に変わったんだな、と思う。もちろん僕の断りなどは最初からいるものではないが、変わってしまうとなんとなく寂しいような気もしないではない。僕のほうから勝手に離れていたくせに、人間というのは勝手なものである。
 歩道を歩いていると前方から自転車とすれ違うことがある。十分な幅があれば問題ないけれど、歩道はもともと広いところは少ない。後で考えると、歩道を自転車で通るほうがいけないことのようにも思えるが、道路というところは車中心に考えられており、路肩の狭いところは自転車が通ると迷惑がられるのかもしれない。物理的事情なので、ある程度は仕方が無いとも思う。それに歩道といっても歩いている人はほとんどいない。特に国道のような道で、人とすれ違うことは実にまれなことだ。少数者が声を大きくして何かいうとろくなことはない。だから僕はそういう意味で非難しているのではないのであしからず。
 さて、そういう場面であるが、お互いなんとなく気になるが、スピードにずれがあるのでこれが意外と気を使う。壁面が迫っているところはよけるのが大げさになるが、あんまり早くから壁面にこびりつくようにするのも、いやみったらしい。できるだけさりげなく、何事も無かったようによけられると、お互い気持ちがいいのではないか。
 後ろから来る自転車だと、ジリジリうるさいやつがいる。よけ方を失敗でもしようものなら、「キーッ」とかいって大げさに止まりやがったりして、非難の目で睨み付けられる。たいてい無口そうな学生に限ってそういう態度が多いので、せっかく鳴らしてるのに、という気持ちがあるのかもしれない。少し太ったおばさんにも何故か多くて、ジリジリけっこううるさい。速度を落とすこと自体が大変な労力であったといわんばかりに迷惑そうな顔をしている。その上去り方も肩に怒りを表しながらペダルをこいでいる。残された僕はその怒りの肩を見ながら、とぼとぼ歩かなくてはならない。特にたいして悪いことをした覚えがないのに、ひどく叱られたバツの悪さを感じながら…。
 しかしながらもっとバツが悪いのは、相手のほうがはるか彼方でじっとこちらを待っている場合である。こちらは歩いているのだからそんなに遠くで待たれては時間がかかりすぎる。駆けていってやり過ごすべきなのか非常に悩む。心もち急ぎ足で待機場所までうつむき加減に歩く。やっとたどり着いたら「すいません」とつい言ってしまう。これも、別に悪いことをしたわけではないから不当だと思う。もちろん後で考えて思うわけで、そんなに待つなんて相手だってタイミングが悪いのだから、むしろ相手のほうが僕より悪かったんじゃないかとかえって腹が立ってきたりする。急がせてすみませんと謝るべきなのではなかったのか。いまさら謝罪を求めても遅いわけだが、せめてもう少し近くで待ってくれるようこの場を借りてお願いしたい。
 道路わきで積荷を行っているおじさんがいる。歩道にたくさんの荷物が積んであって、一人で黙々と積荷を行っていた。ドラックは道路にはみ出しているが、そんなに車の量が多い通りではない。僕は作業を中断するのもなんだからと考えて、車道の方へ乗り出して迂回するコースを取った。また歩道へ戻る時に後ろから大声で「すみませんでした」という声がする。振り向いて会釈して歩き出したが、働いている人は偉いのだから、僕ごときに礼をいうことはないと思う。僕は歩いているだけで、つまり遊んでいるのだから、仕事の邪魔をした僕のほうがむしろ悪い。しかしなんとなく、心のほうは心地いいので、礼儀というのは大切なのかもしれないとも思う。やはり迂回したり待ったりすることを厭わずに歩く心掛けをもとうなどと、爺さんくさく思うのであった。
コメント
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