カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

卑怯な存在と演じている僕

2007-01-24 | 雑記

 僕自身は匿名というのは基本的に卑怯だと思う。でも匿名じゃないかといわれそうだが、僕自身が卑怯なせいである。まあ、自覚しているという意味で。ネットという世界を勘違いしていて、なんとなく恐ろしげな気がしたので匿名(というか、自分で考えた愛称である)ではじめてしまったというのが実情なのだが、卑怯であることにはかわりがない。プライバシーだとか難しいことをいう人もいるようだが、匿名であるからこそ侵害する可能性のほうが高まると思われる。「2ちゃんねる」の世界がまさにそうで、卑怯者が卑怯な手で騒いでいる。真実をさらすというへんてこな正義感を持っている人もいるようで、卑怯な上に情けない。面白半分は子供であろう。まだ人間にすらなっていない可能性もある。
 匿名でなければ書けないことというのは既に真実ではない。相手が分かるようにするためには、隠し事があっては嘘をはさまなければならなくなる場合が多いからである。特定できることを示すと身元が割れる。少なくとも分かる人にはわかる可能性がある。実名を出し、因果関係を明らかにすることは、誹謗中傷で無い限り、プライバシーの侵害ではなかろう。皇室関係などは公然たる日本人のタブーなので危なそうだとも思われるが(だからといって非難しないのも卑怯ではあるが)、それ以外であれば、特に身の危険を心配することもないだろう。ネット上で暴力的な人が、実際に怖い人であるかどうかも分からない。むしろ違うような気もする。
しかしながら政治家とか芸能人は平気でひどいことを言われたり書かれたりするので、気の毒だとは思う。有名人だからしてもいいことであるというのは、変な勘違いなのではなかろうか。こちらとしては安全で、卑怯であるに過ぎない。彼らは人ではないということなのだろうか。
 実名で書くことで、社会的な抑制がはたらくとも考えられる。少なくとも自分の身元を明かすことは、自制を生むだろう。書いている人物も実名であるからには下手なことを書けない。「このアホが」などと平気書けば、品位を疑われることだろう。たとえ相手が怒らないような親しい間柄であっても、第三者を考えて書くという行為は、必要最小限の品位であろう。新聞記事などでも匿名のものほど攻撃的だが、記名記事は抑制が効いている。ネット上であれば言わずもがなであろう。
 しかしながら安全なことを書いていてもいけないという意識はある。これは上手く表現しにくいのだが、嫌われてナンボという気持ちも必要なのではないか。世の中には勝手に誇張して解釈したり勘違いして怒り出す人が必ずいる。誰とはいわないが、自分の度量が足りないことには気づかず、人を非難したい勝手に偉い人もいる。自分から偉い人なのだから、どうにもならない。で、あるが、そういう人を怖がってはいけないのではないかと思う。お叱りはもっとものこともあるのだろうけれど、簡単に納得してもいけないのではないか。無知や煩わしさや自己規制が、本当に大切なことまで見えなくしてしまう。リスクを負ってこそ、得るものも大きいということでもあるかもしれない。
 まあ、それでも僕はkorin310というのも気に入っている。自分自身であるけれど、ある意味で演じているということなのかもしれない。多重人格である。誰かのブログを真剣に読んでいる人なんていないと誰かのブログに書いてあるのを読んだことがある。人知れずのことなんだから、気楽でいいのである。さらに世渡りには多少の嘘も必要なので、これはこれでいいのである。
コメント
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