カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

今回は妄想である

2007-01-23 | 時事
 「不二家」と「あるある」納豆のことを思うと、構造的にはよく似ているような気がする。陰に隠れた大衆の無責任ということもあるし、やはりこれで面白がったりすることを利用して商売をしているヤクザな存在があるのだろうという妄想である。ミスタードーナッツが取引業者に6300万円の口止め料を払ったらしいというニュースもあるし、不二家は払わなかったのかもしれない、などとも思う。僕はワイドショーを見ないので聞いた話だが、工場には3秒だとか5秒ルールがあったなどという井戸端会議のような話もあるんだそうである。これはゆするには絶好の材料である。普通の飲食店には当然ある話だし、そういうことがないはずがない(と思う)。許せないという感情も分からないではないが、許せない人はたぶん喜んでいる人の中にたくさんいそうな感じもする。そしてヤクザと連携しているのだろう。段々分かりにくい話になっているが分かりにくく書いているのである。庶民とか大衆とかいうものは、ヤクザの正体ではないだろうか。グリコ・森永事件の時も、他社に裏で便乗恐喝をやる事件が続いた。今回も当然何かアクションを起こしているはずだろうと思う。
 まあ止そう。単なる妄想である。

 止そうといいながら関連する話だが、不二家の商品を探して食べ歩いている人もいるらしい。どこにはまだネクターが売られていたなどという話が飛び交っている。そういう心理もやはり結局は連動したものではないか。僕はヨーグルトを食べるのだが、雪印の時は、正直に言って少し買うのに躊躇した。食うのはたぶん平気だが、平気だとレジの店員に主張している感じが戸惑いを生んだ。自意識過剰である。
 しかしながら今回は小売店が商品自体を撤去している。消費者には選択の自由さえ奪われている。こうした制裁意識は、リスク回避の事なかれ主義の尻尾切りである。大人が子供にいじめのやり方を身をもって教えているのだろう。がんじがらめに縛り付けて長時間いたぶるには、この方法がもっとも有効ないじめ方であろう。「いまだにこんな商品を置いて、なんと不謹慎な」という声を上げてくれるような支持者も少なからずいることだろう。くわばらくわばらである。
 しかしながら不愉快な人は、自分だけ不愉快でいられないのだろうか。ふとそう思ってみただけであるが、人を動かすために不愉快を利用するのはけっこう行動に移しやすいことなのかもしれない。怒りということなのか。アドレナリンは戦いには有効であるらしいから、一人でも戦える。勇気と勘違いしやすいのかもしれない。
 まあこんなことを書き連ねても、結局は僕も便乗しているようなものだ。ご冥福を祈ろう。
コメント
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