カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

運転者は犯罪予備軍だ

2015-10-20 | HORROR

 日本にいる留学生くらいだと慣れているだろうから十分通じるだろうけれど、「ドライブに行こう」という日本語には、最初はピンとこないという話を聞いたことがある。目的地が無くて運転だけ、というのが、なんとなくわかりにくいという意味らしい。車に乗りながら話をしよう、ということなら分かるんだろうけれど。
 天気のいい日なんかに車の運転をするのは、確かに気持ちのいい時がある。車の運転自体が娯楽性があるというのはある。ジェットコースターやゴーカートなんかが娯楽であるのは、スピードを体感したり運転することを、金を払ってでもやりたくなるということでもある。そうであるならば、自家用の車の運転も、娯楽であるという見方は十分にできる話だ。だから通勤のような目的行為であっても、同時に楽しんでいるという見方をすることもできるかもしれない。
 何を言いたいかというと、運転が娯楽であるのなら、制限してもしかるべきではないか、という議論があるのを知ったからである。酒や煙草は嗜好品であるから、嗜好する人はやってもいい代わりに、それなりの責任とルールがあるように、運転についても、特にドライブなどという行為においては、何らかの方法で課税するなり制限してもおかしくないだろうというものだ。車を買えばその中に税金を含んでいるのだし、重量税その他の特殊な税を別に納めている。保険などの負担もあるし、維持費においても、間接的に税の対象になっているものは多いだろう。それ以上にまだ負担を求めるのはけしからん、という思いの人もいるだろう。しかしながらご存じのように、車は鉄の塊で、さらに十分人を傷つけ、場合によっては殺傷能力の高い凶器である事は間違いが無い事実だ。日本では、一時期のように交通事故の死傷者が増え続けているという状態は脱したが、それでも年に四千人を超える人が自動車事故で亡くなっているという。世の中には様々な娯楽があろうが、自動車のように他人を巻き込んで不幸に陥れかねないような娯楽は、そうそうあるものではあるまい。そうであるならば、特に目的も持たずに凶器を振り回すに等しいドライブのような行為は、慎むべきものではないかという理屈は、それなりに一理あると言わざるを得ない。
 ちょっと前に交通安全啓蒙のビデオを長時間見せられたのだが、加害者となってしまった運転者や家族の悲劇が、これでもかというくらいしつこく繰り返し演出されるものであった。少しでも飲酒をするのはアウトであるにせよ、乾杯してすぐに顧客からクレームが来て早急に駆けつけるよう要請を受けてしまう。実はそれは自分の部下のミスで、そうして実に責任感の強い人だからこそ、急いで顧客の元へ行くには運転以外の選択肢が無い。それで結局お約束の事故を起こしてしまう。結果的に殺めてしまうのだが、繰り返し謝罪に行くが虫けらのようにあしらわれ、刑務所に入り謝罪のお手紙を繰り返し書くが受け取ってももらえず、自宅は借金に取られ、妻子は生活苦でやつれ果て、子供はいじめられ、結局愛する妻は離婚を決意する。会社は事故を起こした人間を出したとして業績は悪化。社長や社員たちも、さらには今回の事故の原因でもある部下でさえ冷たい。亡くなられた人の家族もお気の毒ではあるが、加害者が苦しんで当然であるということのようだった。意味は分からないではないが、正直者で良い人だから、社会罰を受けて苦しんで、精神も異常にならんばかりの苦しみでいいのだという演出に徹していた。悪いことをすると社会的制裁としてとことん犯罪者をいじめていいということを主題にしていて心苦しい。本当にそれでいいのだろうか。暴走運転をして、一つも反省もせず謝罪もせず運が悪かっただけだという開き直りの犯罪者もいるだろうに、何という不公平な社会だろうか。
 要するに車を運転する人間は、ろくでもない犯罪予備軍である。だからそれくらいの罰や制限を受けさせるべきだという考えの人が、一定数いるのだろう。楽しみにはそれくらいの責任の上でのことだと言いたいのだろう。いつの間にか本当に歪んだ世界になったものだと感じたことであった。
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