カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

母親とは何か、家族とは何か   夕陽のあと

2021-01-28 | 映画

夕陽のあと/越川道夫監督

 都会からやってきたらしい茜は、島の食堂で働き物珍しさもあるのか人気者になっている。一方港で夫婦ともに働く五月は、子宝に恵まれなかったらしく、養子縁組を見据えた里親として「豊和(とわ)」という男の子を育てている。五月夫婦は、豊和と暮らすようになり、家族としての絆も深まり、温かいしあわせを感じている。息子の豊和も地元の子供と馴染んでおり、いい子に育っている様子だ。そういう中で、一定の年齢までなら正式に養子縁組が可能であることから手続きを進めようとするが、東京にいるはずの豊和の実母のゆくえが分からなくなっており、同意をとることに難航していることが発覚する。資料によるとその実母の名前が、都会からやってきた茜と同姓同名である。五月は動揺し、茜のところに遊びに行っていた豊和を乱暴に連れ戻し、茜にこの島から出て行けというのだった。
 重いテーマの物語だが、実母である茜の過去が明かされるところから、一種のサスペンスじみては来る。茜は実母として親権を拒否することはできない様子だ。日本の法律は特殊なところがあって、実母の権利が強いことでも知られている。しかしながら既に愛情をかけて育ててきた時間が、五月の感情を割り切らせることを拒んでいる。
 まさに究極の選択、という感じある。だけれど、物語は静かに進行して、二人の「母親」の心情をひも解いていくように進んでいく。そもそも簡単に割り切れない問題がそこにある。どうすればいいのか、という解答は、さらにどうすべきかなどという倫理は、そこでは通用しないことなのかもしれない。
 こういうのをいい映画、というのではないか。社会問題や法的な不備を、見事にとらえて抉り出している。都会と過疎地の問題も絡み、そうして時間を共有してきた者たちの心の傷を深くしていく。惜しむらくは科白をとらえる音声がはっきりしないことで、このようなロケが多く、さらに自然でシリアスな演技をする言葉回しがはっきりと聞こえない。日常会話なんてそんなものかもしれないが、映画だと、ちょっとで済まない気になるところである。DVD化される日本映画は、どんなものにでも字幕を付けるべきではなかろうか。
コメント
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