カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

もっとも唾棄すべき素晴らしさがそこにある   セッション

2018-09-15 | 映画

セッション/デミアン・チャゼル監督

 優秀な音楽学院でジャズ教室のバンドメンバーに抜擢されたドラム奏者だったが、その過酷なしごきの様なレッスンに苦しめられることになる。バンドの指揮者は鬼のような教師だったのだ。軌道を逸した暴言やしごきに、心身ともボロボロになりながらも必死に食らいついていく中、いつしかその異常な世界にどっぷり浸るようなことになっていく。さらにそのドラムのポジションを巡っての過酷さは、過剰な限りを尽くしていくのだった。
 レッスンはしごきのためのしごきであるようで、ドラムを叩いてみるとリズムが違うといい、容赦なく家庭環境などを交えた罵声を浴びせ、ホモだのなんだのと言われのない相手の感情を揺さぶることを言い、物を投げつけ、委縮させる。それでも必死についてこようとする生徒を、どんどん精神的に追い込んでいく。誰もがその恐怖にあらがえず、しかしその恐怖心から音楽の世界から、一時も精神的に離れられなくなる。究極の洗脳教育なのだ。見ているものは不快に襲われ、その執拗な拷問に似たレッスンの苦行につき合わされる。次第に精神的にも卑屈になり、高みを目指すばかりにまわりの人間の考え方からも乖離し、さらに孤独になりながらもひたすら利己的にならざるを得ない人間の狂気を見せられるのである。拷問はそれでもおさまらず、ある事故にまで発展してしまうのだった。
 最終的には非常に感動的なお話になるが、その感動もある意味でかなり異質である。ラストのどんでん返しは、本来的な意味で、トリッキーな意趣返しとしてのどんでん返しでは無い。しかし、映画の歴史においても、なかなか到達しえないピークに人の精神を持ち上げる効果を上げていることは間違いない。この映画で感動してしまう人は、この世界を嫌悪していてもかまわない。これほど屈折していながら、観客を持って行くのだから、悔しいながらも完敗という気分にもなる。まったくしてやられた。しかし、冷静に考え直すと、これはどうなんだろう。凄すぎてとても付き合いきれないが、この高みを味わう人はしあわせなのか。もの凄く複雑な気分なのである。
 この映画を観るように勧めてくれる人が、これまで複数人居た。配給というか事情があって、なかなか観ることが叶わなかった。普通ならそれでも観るのだが、そういう配給のやり方に反発心もあって、後回しになっていた。しかしながら観るように勧めてくれた意味はよく分かった。この映画を良いと思うかどうか。その意見を共有したかったのではあるまいか。この不思議な感動を、味わってほしかったのではあるまいか。
 確かにラストの9分あまりの時間は素晴らしい。その緊張感も含めて、こんなことが起こり得た奇跡に似た体験に翻弄される。そういう意味では名画である。
 しかしながら同時に、やはりこれは特殊すぎる。究極のマゾっ気があるからかもしれない。とても肯定できるものでは無い。はっきり言って嫌なのである。これを良いと言ってしまえるほどには、この世界の音楽を肯定する気になれないのである。結果的に素晴らしい音楽になろうとも、そんなことは知らなければそれでいいのだ。そうして得られた結果が素晴らしいなんて、これは一種の悲劇なのではないか。
 劇中に音楽学園の壁に「無能な奴はロックをやれ」と書いてあった。思わず笑ってしまうのだが、僕はまったくこれだな、とも思った。僕は無能だからロックをやる。そういう精神こそ大切なのではないか。卑屈みたいだけど素直にそのような受け入れこそが必要な気もする。映画は素晴らしいが、僕の人生にはまっぴらごめんな話である。自分の生き方を肯定するためにも、反面教師としての存在がここにある。やはりもっと早くに観ておくべきだったかもしれない。
コメント
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