カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

最近は真剣に向き合うということをしていない

2012-05-02 | 音楽

 若いころはテープに録音したものであれレコードであれ、どういう訳か繰り返し真剣に音楽を聴いていたような気がする。出来れば姿勢を正して全身を音楽に傾けるというような聴き方をしていたように思う。そうしておこがましいのだが、これはひょっとすると自分にしか分かっていないのではないか、などと考えたりしていた。若いというのは一途だけれど恐ろしいものです。
 基本的にロックばかり聴いてたわけだけど、時々モーツアルトなんかも聞いていた。モーツアルトは当時のポップ・ソングだよな、などと思っていた。しかしやっぱりある程度つきあうとロックに戻っていく。
 同じものばかりは確かに飽きるからいろいろ聞く訳だけど、やはり何度かは聞かないことにはしっくりと体に馴染んでいかないというような、そんな気分はあった。だからプログレのような大仰なものも好んで聴いていた。そうしてやはり同じような個所に差し掛かると、同じように高揚感を味わって満足していた。今のように携帯電話とかメールが来るような事が無いから、誰も邪魔をしない。もちろん途中で中断するような事があると猛烈に腹が立ってモノを壊して回ったに違いない。
 友人の家なんかでダべっていてかけ流している曲を聴くともなしに聴いていると、いつの間にか話がなんだったっけということになってしまったりした。ヤバい、よく話を聞いて無かったな、と思うんだけど、どんどん話はちぐはぐになったりして、「なんだかお前、もういいよ」などと言われたりした。曲がかかってるから悪いんだよな、などと心の中で言い訳していた。真剣なんだか不真面目なんだか分からない。
 このままでは人間関係を築けなくなってしまうなどと心配したりはしないが、大人になってもたまにそういうことはあって、主にそれは話している内容があんまり興味の無い物だったりして、流れている音楽に逃避してしまうのだろうとは思う。自分が話しているときは絶対聞いてくれないと不機嫌になるだろうから、やはりそれなりにわがままなのだろう。
 しかしながら最近はやはり体力的な衰えというものがあって、この集中して真剣に聴くというのがなんだか苦手になってきた。通勤などに車で音楽を聴くというのが中心になっているが、曲名などはほとんど覚えていない。もうどこの誰の曲だというのさえどうだっていいという感じだ。
 僕はながら聴きというのが得意じゃ無かったのだが、今では何となく出来るようになってしまった。本を読んでいるときなど好きな曲がかかってしまうと集中できないので、本に集中できるまで音楽はかけないようにしていたものだけど、今は音楽のなっている中でも読めるようである。まあ、確かに出来るだけ邪魔しない曲の方がいいけれど。
 音楽の無い生活なんて考えられないと以前は思っていたようだが、これから先は特に無音でも生きていけなくもないような気がしないではない。もちろん退屈はいまだに嫌だから、無理になくすことも無いのだが。執着しない生き方を理想としていた訳で、人間枯れてくると自然に望むと望まないとにかかわらず、そうなってしまうのかもしれない。くりかえずが、無理に取り上げたりはする必要も無いんですけどね。
 でもまあ、時々無暗にCDを買いまくったりしてしまうので(アマゾンからたくさん送られてきて、いったいこれ、誰が注文したんだ! と過去の自分に悪態をつきたくなる)、ずっと枯れた生き方というのはまだまだ難しいです。
コメント
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