切り替えイベントの必要性
安城家の舞踏会/吉村公三郎監督
撮影は敗戦の翌年から行われていたらしい。猛烈な食糧難だったことを鏡みると、おそらく腹ペコで撮影されたものだろう。失われてしまう豪華絢爛の世界を、精いっぱい無理して撮った労作ということになろうか。
日本にも貴族が居たらしいことは歴史で知らない訳ではないが、恐らく実感のある人はそういないのではないか。皇族やお殿様や豪族のような人たちの一部が貴族となったのかもしれないけれど、西洋のそれとは、やはりなんだか違うような気がする。もちろん、階級等の身分の違いというのは、厳格にあった時代の方が現代よりもはるかに長いのだから、分からなくなった今の我々の方が、物忘れが激しいのかもしれない。しかしながら忘れてしまったものは仕方が無い。ましてや西洋風の貴族文化というものが、本当に日本に馴染んだものなのだろうか。現代にもセレブと言われるような人たちは存在するのだろうけれど、やはり貴族のような感じの人たちという感じはしないような気がする。実際そうした人達はどこで何をしているものだろうか。
お話は面白くはあるのだけど、やはり原節子の言葉遣いというのはそれなりに不快で、彼女は安城家の中にあって比較的まともな人物らしく描かれているものの、言葉遣いのお上品さが、なんだかどうにも落ち着かない感じだ。人を気遣っているのだろうが、まったく煩わしく、もう邪魔しなくてもいいじゃないかというような、不愉快な立ち回りに見えてしまう。実際勝手にあれこれ画策し、ある意味でこの家庭を大いに揺るがしている。いや、結果的に守ろうとする正しい行動ながら、時にはかなり疎ましく思えてしまうのだった。
しかしながらこのような嫌悪されるような社会にあっても、失われていくものは物悲しくも美しいという姿を、見事に表しているのも確かだ。皆身勝手で恐ろしく世間知らずで、甘ったれている。右往左往したり失望したり傍若無人になったりもする。しかしながら残された時間はもはやほとんど無い。自分の力ではどうにもならないところに来て尚、何かふんぎりをつけきれずにいる。それでも舞踏会をまだ開けるだけ余裕があるというのが不思議ではあるものの、とにかくそういうことになって、周りの思惑も複雑にからんで、複雑な一夜のドラマが展開される。
世界中にはまだ、生まれて死ぬまで一度も働く必要の無かった、または実際にそうしなかった人たちというのはそれなりに居るものだとは思われる。平和な時代が長くなると、当然そのような人々は相対的に増えるだろう。しかしながら一定以上の割合までしか存在はしえないのかもしれない。一見うらやましい存在であるようにも思われるものの、はたしてそれはそうなのだろうか。このような舞踏会を開いて楽しい人々というのは、本当にそれが楽しいのならばいらぬお世話だけれど、やはりそれだけで悲しいようにも思えてくる。そういう世界から離れられないという思いに捉われてしまうことは、そうした特権を手にした人々の、最大の不幸になりえるものではないだろうか。もちろん逃げ切って一生をまっとう出来たものはまだいいが、ひょっとすると没落するのではないかという現実の可能性を少しでも思う時、彼らの心は平穏では居られないだろう。
もちろん貴族で無くとも、人間社会に住む我々すべては、現在が未来を必ずしも保証しえない。それが庶民にとってはある意味で楽観的な未来でもある訳だが、富というものを持っている者にとっては、むしろ不安材料にもなりうるものだという気がする。もちろんそれは皮肉な構図を想像してのものではあるが。現実離れした夢のような世界であっても、儚いという時間の中での振る舞いであるというのが、持たないものである僕でも理解できる所以なのであろう。この映画の舞踏会のように、人間は切り替えることが出来なければ、未来を生きることはできないということなのであろう。
安城家の舞踏会/吉村公三郎監督
撮影は敗戦の翌年から行われていたらしい。猛烈な食糧難だったことを鏡みると、おそらく腹ペコで撮影されたものだろう。失われてしまう豪華絢爛の世界を、精いっぱい無理して撮った労作ということになろうか。
日本にも貴族が居たらしいことは歴史で知らない訳ではないが、恐らく実感のある人はそういないのではないか。皇族やお殿様や豪族のような人たちの一部が貴族となったのかもしれないけれど、西洋のそれとは、やはりなんだか違うような気がする。もちろん、階級等の身分の違いというのは、厳格にあった時代の方が現代よりもはるかに長いのだから、分からなくなった今の我々の方が、物忘れが激しいのかもしれない。しかしながら忘れてしまったものは仕方が無い。ましてや西洋風の貴族文化というものが、本当に日本に馴染んだものなのだろうか。現代にもセレブと言われるような人たちは存在するのだろうけれど、やはり貴族のような感じの人たちという感じはしないような気がする。実際そうした人達はどこで何をしているものだろうか。
お話は面白くはあるのだけど、やはり原節子の言葉遣いというのはそれなりに不快で、彼女は安城家の中にあって比較的まともな人物らしく描かれているものの、言葉遣いのお上品さが、なんだかどうにも落ち着かない感じだ。人を気遣っているのだろうが、まったく煩わしく、もう邪魔しなくてもいいじゃないかというような、不愉快な立ち回りに見えてしまう。実際勝手にあれこれ画策し、ある意味でこの家庭を大いに揺るがしている。いや、結果的に守ろうとする正しい行動ながら、時にはかなり疎ましく思えてしまうのだった。
しかしながらこのような嫌悪されるような社会にあっても、失われていくものは物悲しくも美しいという姿を、見事に表しているのも確かだ。皆身勝手で恐ろしく世間知らずで、甘ったれている。右往左往したり失望したり傍若無人になったりもする。しかしながら残された時間はもはやほとんど無い。自分の力ではどうにもならないところに来て尚、何かふんぎりをつけきれずにいる。それでも舞踏会をまだ開けるだけ余裕があるというのが不思議ではあるものの、とにかくそういうことになって、周りの思惑も複雑にからんで、複雑な一夜のドラマが展開される。
世界中にはまだ、生まれて死ぬまで一度も働く必要の無かった、または実際にそうしなかった人たちというのはそれなりに居るものだとは思われる。平和な時代が長くなると、当然そのような人々は相対的に増えるだろう。しかしながら一定以上の割合までしか存在はしえないのかもしれない。一見うらやましい存在であるようにも思われるものの、はたしてそれはそうなのだろうか。このような舞踏会を開いて楽しい人々というのは、本当にそれが楽しいのならばいらぬお世話だけれど、やはりそれだけで悲しいようにも思えてくる。そういう世界から離れられないという思いに捉われてしまうことは、そうした特権を手にした人々の、最大の不幸になりえるものではないだろうか。もちろん逃げ切って一生をまっとう出来たものはまだいいが、ひょっとすると没落するのではないかという現実の可能性を少しでも思う時、彼らの心は平穏では居られないだろう。
もちろん貴族で無くとも、人間社会に住む我々すべては、現在が未来を必ずしも保証しえない。それが庶民にとってはある意味で楽観的な未来でもある訳だが、富というものを持っている者にとっては、むしろ不安材料にもなりうるものだという気がする。もちろんそれは皮肉な構図を想像してのものではあるが。現実離れした夢のような世界であっても、儚いという時間の中での振る舞いであるというのが、持たないものである僕でも理解できる所以なのであろう。この映画の舞踏会のように、人間は切り替えることが出来なければ、未来を生きることはできないということなのであろう。