梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

ナチハンター(その5)

2024年06月29日 06時15分24秒 | Weblog
ホロコーストの抑制がもはやきかなくなり、第二次世界大戦に負けたドイツは、裁かれることになります。それがニュルンベルク裁判です。軍部の統制が図れず混迷し、太平洋戦争に負けた日本も、裁かれることになります。それは極東国際軍事裁判(通称:東京裁判)です。

ドイツと日本のこの裁判で特徴的なのは、主に勝戦国が敗戦国を裁いたところにあります。一体、国や戦犯などを裁くとはどのようなことなのか。二つの裁判は、勝戦国の論理や正義を持ち出して、裁くことにならないのか。それを理解しなければ、これらの裁判の本質は解りません。

もし日本が米国に勝っていたら、東京裁判で裁かれた同じ行為をしていた日本は、裁かれることはなかったでしょう。つまり、戦勝国の行為が人道にもとったものでも、問われないことになります。色々と疑問がわいてきます。今回このような問題を考えてみたいと思いました。

今回二つの裁判を学び直し、調べてみて分かったことは、ニュルンベルク裁判が先に行われ、その後に東京裁判か行われ、しかも東京裁判はニュルンベルク裁判を手本としていたということです。それが、日本にとって理不尽な結果に終わったことは、あまり知られていません。

第一次世界大戦後、ヴェルサイユ平和条約によって設立された国際連盟の規約には、国家が国策上戦争に訴える余地を残していました。しかし、1928年に署名され翌年に発行した「パリ条約」において、当事国は「国策の手段としての戦争を放棄する」ことを宣言しました。

つまり国策の手段として、国は戦争してはならないとのことです。この条約には後に多数の国が参加しました。そのため国策の手段としての戦争を侵略戦争と呼び、パリ条約以降、侵略戦争は国際法に違反する行為となったのです。一国の侵略的な戦争行為は、人道上では悪行とされたのです。

これに対して異論もあり、国策の手段としての戦争はパリ条約の当事国相互間では違約行為であっても、条約の非当事国を含む国際社会全体において違法行為となったわけではなく、侵略戦争とパリ条約で宣言したものの、何が侵略戦争であるか何が自衛戦争であるかをハッキリ定義せず、結果この判断は「各国家に委ねられる」とのことになりました。

皮肉にもそこを明確にしないまま、第二次世界大戦がドイツによって引き起こされます。また、それまでは「戦争犯罪人」という言葉は、「通例の戦争犯罪(捕虜の虐待や一般住民の殺傷のような戦時法規の違反者の犯罪)」を犯した者の意味であって、国として戦争を行なうことは犯罪とはみなされていなかったのです。

従って、第二次世界大戦の後でも、通例の戦争犯罪人を処罰するにとどめ、ドイツや日本の戦争責任については、国際世論や国内世論の道義的判断に委ねることも可能だったのです。ではどうして、ドイツや日本がその裁判で裁かれるようになったのか、それも戦勝国によって。

米ソ英仏4ヶ国はドイツを無条件降伏させた3ヶ月後の1945年8月ロンドンにおいて「ヨーロッパ枢軸国主要戦争犯罪人の追及および処罰に関する協定」を締結し、同日定めた国際軍事裁判憲章に基づき、同年11月からのニュルンベルク国際軍事裁判もこの4ヶ国で構成されました。

ロンドン会議で、国際法の内容の中で一番議論を呼んだものの一つは「国家の行為に対して、個人の責任を問うことの是非」でした。その結論は、戦勝国たる連合国側は、裁判により戦敗国の指導者の戦争責任を追及する道を選ぶことになります。

東京裁判のモデルとなったニュルンベルク裁判とは、1945年11月から1946年10月までニュルンベルクで開かれた国際軍事裁判をいいます。ニュルンベルク裁判で起訴されたのは、第三帝国期のドイツ国家官庁・ナチ党・軍・経済界の指導的地位にあって戦争遂行に重大な役割だったとされる24名の被告でした。

裁判における訴因は「(侵略戦争遂行のための)共同の計画もしくは共同謀議への関与」「平和に対する罪」「(狭義の)戦争犯罪」「人道に対する罪」の四でした。この視点も、過去からの統一性への努力が生かされていないように思われます。ここで注目すべきは、ナチス・ドイツの強い復讐心から、このニュルンベルク裁判が戦勝国によって企画されたとの指摘があることです

その流れを汲んだ東京裁判は、正義の追及を考えていたのでしょうか。あるいは、連合国にとって好都合な戦争秩序を作りだすための政治的行為であったのでしょうか。両方あったにしろ、やはり優位だったのは後者の政治的側面のほうだと思われます。

事実、東京裁判は真珠湾奇襲に対するアメリカの復讐、日本に対する核兵器の使用というアメリカの国家的犯罪を緩和するための手段かとの声が上がっていたとのことです。私は、東京裁判というものは組織を裁くことができないので、人間を裁いてしまったという気がしてなりません。

ナチ体制の犯罪、わけてもホロコーストが、日本の「通常の」戦争犯罪と比較し、類をみぬ犯罪であったにもかかわらず、ニュルンベルク裁判よりも厳しい判決が東京裁判では下されました。東京裁判はニュルンベルク裁判をモデルとしながらも、それとは重大な相違を帰結することになったのです。日本がドイツの余波を被った、といっても過言ではありません。

その東京裁判に異義を称えた人物がいました。判決に際して判事団の中から、幾つかの少数意見が出されましたが、その内で最も注目されたのがインド代表判事のパル判事の判決書です。次回それを紹介します。 ~次回に続く~ 

 ニュルンベルク裁判の被告

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ナチハンター(その4) | トップ | ナチハンター(その6) »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事