梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

ナチハンター(その4)

2024年06月22日 07時06分39秒 | Weblog
ある映画を最近シネコンで観ました。少し難解な場面もあったので観終わった後、ネット上で映画のあらすじや解説を確認しました。それらを引用し紹介します。この映画を何故観ようと思ったのか、今回のテーマのナチハンターとどう関連しているのか、読んで下されば理解できるように書いていきます。映画の出だしからです(以下文章は、引用したもの)。

 映画が始まるとすぐに画面はブラックアウトする。奇妙で不気味とも言える音楽に、ささやき声やうめき声のような音が重なって行く。その間、約3分。目の前の黒い画面を前に、何とも落ち着かぬ気分にさせられる。やがて、小鳥のさえずりが聞こえ始め、ようやくスクリーンに水辺でピクニックを楽しむドイツ人家族の映像が現れる。
 彼らは夜遅く車で帰宅し、カメラはまばらに明かりを灯した屋敷の外観をとらえている。問題は、その家がアウシュビッツ強制収容所に隣接していることだ。塀の上にはよく見ると有刺鉄線が張り巡らされ、煙突からはひっきりなしに煙が上っている。
 翌日誕生日を迎えて家族や部下たちから祝福されていたのは、収容所の司令官ルドルフ・ヘスだ。歴史上実在した人物であり、その家族が強制収容所の隣に暮らしていたことも史実に基づいたものだ。アウシュビッツ強制収容所で行われていた悪魔のような所業が直接的に描かれることはない。だが、悲鳴や銃の音、焼却炉の轟音や正体のわからない機械音といった尋常でない音が常に響いている。映画は収容所の恐怖の実態を「聴覚的」に表現しているのだ。オープニングのブラックアウトの3分間はそれを端的に表したものだったのだ。
 しかし、ヘス家がそれを気にするそぶりはない。ルドルフは家庭では良き父、良き夫として描かれ、妻のヘートヴィヒはこの暮らしにすっかり満足している様子だ。音が聞こえていないはずはないのだが。一家はすっかりその音に慣れてしまい気にならないようだ。慣れてしまえるのは、収容所に収監されている人々の苦しみに対して驚くほど無関心だからである。

このような出だしの映画でした。題名は『関心領域 The Zone of interest。アウシュビッツ収容所を「聴覚的」に描き、人間の冷徹な「無関心」さを暴く問題作といわれます。英国の鬼才ジョナサン・グレイザー監督がマーチン・エイミスの小説を原案に2年のリサーチを経て製作した注目作品とのことでした。

なぜこの映画を観たかといいますと、ある新聞の記事によって興味を持ったからです。以下、その記事の要約です。表題は“ホロコーストは上位下達か問い直す~映画「関心領域」に見るナチ幹部の実像~”

 アウシュビッツ強制収容所で、ホロコーストに関わりながら意識を背ける醜悪さとともに、ナチ幹部らの「主体性」や、有名な「悪の凡庸さ」を考え直す視点も浮かび上がる。タイトルと相まって、一家は隣の虐殺に「無関心」なように映る。だがナチズム研究者の田野大輔・甲南大教授は「無関心なのではない。むしろ確信的に虐殺に加担している」と語る。映画で、ヘスは「効率的」な焼却炉の新造を綿密に打ち合わせる。
 田野氏によると、描かれるヘスら親衛隊員の姿は、近年の研究で明らかになってきた実像に近いという。例えば、親衛隊は単なる上意下達の組織ではなく、各自がナチのイデオロギーを内面化し、それを具体化させようと「主体的」に実践を競い合っていた、という点だ。ユダヤ人らを排除したドイツ人の『東方生存圏』を築くという全体構想は共有されていた。その共通認識のもと、各部局が競い合って虐殺がエスカレートしていった状況を映画も踏まえているという。【東方生存圏:ドイツが東部に領土を獲得するべきであるという思想で、ドイツ帝国以前からすでに現れていた】
 ヘスと同じ親衛隊の幹部に、ユダヤ人移送を指揮したアドルフ・アイヒマンがいる。戦後、イスラエルで彼の裁判を傍聴した哲学者ハンナ・アーレント(女性)が唱えたのが有名な「悪の凡庸さ」だ。この概念を再考する機会にもなる映画だと田野氏は指摘する。「ホロコーストを行ったナチも普通の人間たちだった」と考えると、免罪するような意味合いになってしまう。映画のように、彼らは虐殺に積極的に手を染めていた。
 一方、香月恵里・岡山商科大教授(現代ドイツ文学専攻)は、アーレント自身も「悪の凡庸さ」を「ありふれた」という意味合いでは用いていなかったと指摘している。アーレントの意図を離れて「悪の凡庸さ」は一人歩きした。日本でも、同調圧力を批判する文脈などで使われやすい。ただそれはアーレントの言いたかった意味とは異なるものだと、香月氏は言及。
 田野氏もホロコーストを語る際の決まり文句として「悪の凡庸さ」が用いられることに警鐘を鳴らす。想像を絶する悪を、自らの理解に収まる言葉だけで説明しようとするのは、事実を矮小化することだ。それは映画で描かれたような、進行中の加罪から意識を背ける行為になってはいないか。

ここまでが記事の内容です。「悪の凡庸さを許さない」。ナチハンターの精神と、ここで繋がります。今に至るまで映画もドラマも「忘れさせてはいけない」、そのような意図で描かれているのです。   ~次回に続く~

 映画「関心領域」


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ナチハンター(その3) ~2年... | トップ | ナチハンター(その5) »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事