風音土香

21世紀初頭、地球の片隅の
ありをりはべり いまそかり

中学生時代

2022-07-08 | 風屋日記
私の60有余年の人生、いろんなことがあったのだが、
思い返すと、まぁ総じて楽しいことが多かった。
その時は辛かったり、苦しかったり、悲しかったりもあったが
今思い返すといい思い出になっているのが不思議だ。
しかし、唯一中学校時代だけはあまりいい思い出がない。
というか、あの頃の中学校が嫌いだった。
高校に入るとバラ色の3年間を過ごすことができたので
ギャップが激し過ぎたせいか
より中学時代の3年間を思い返すことが無くなったように思う。

まず、時代が時代だった。
長い学ランを着て肩で風切って歩く生徒が多かったせいか
校則が厳しく、先生方はすぐにビンタやゲンコツを喰らわせた。
例えば男子の頭は坊主。
指で挟んでちょっとでも指の間から髪の毛が出ると
校則違反ということで処罰された。
制服の破れやボタンが取れたりしている者も。
すべて全体主義的な規律に従うことを強要されていた。

理不尽な暴力もあった。
いまだに忘れられないのは1年の体育の時間。
バスケットボールでシュートの練習をしているときのことだ。
なぜかその時は調子が悪く、なかなか入らない。
何度か外すと気持ちも焦ってくる。
そうするとますます入らない。
何度か外していると、突然先生に呼ばれ、
いきなりゲンコツが飛んできた。
「なぜ入れない。ふざけてんのか?」
入れないのではなく入らないのだ・・・と言い訳もできなかった。
角刈りで、外ではティアドロップのサングラスをかけている
見た目がヤクザ紛いの格好の生徒指導の先生もいた。
この先生からのビンタは3年間で数知れず。
自分のことではないが
隣の席だったヤツは、授業中にちょっと私語をしていただけで
教科書や参考書など3〜4冊重ねた本で何度も頭を叩かれた。
しかも頭上に振り上げてから思い切り。

上下関係も厳しかった。
野球部だったが、ケツバットは当たり前でほぼ毎日。
1年生は上級生の前では私語すら禁じられた。
生徒手帳数ページにわたる部則には先輩への話し方まで書いてあった。
入学1年後には同級生の部員が半分に減っていた。
部活の先輩ばかりではない。
ちょっと何かで目立つといじられ、おもちゃにされた。
息を潜め、目立たないようにこそこそ学校で過ごすことになる。

まぁそれらは時代と言ってしまえばそれまで。
まだまだ戦前を経験した先生が多かったためなのか
ほぼ軍隊生活のような毎日だった。
(小学校の頃でさえ、シベリア帰りの先生にビンタされていたから)
しかし、本当に嫌だったのは・・・イジメだった。

自分が標的となったわけではない。
いや、何かあるとすぐに標的が変わったし
クラスのヒエラルキーとは違う世界を私は持っていたので
ちょこちょこ嫌な思いをすることはあった。
しかし、一番痛い記憶は転校してきた同級生に対するイジメだ。
同級生たちの一部は、孤立している彼の一挙手一投足を
ヒソヒソ噂しあっては嘲笑していた。
「私自身は何かしたわけじゃない」
そう、何もしなかった。
それがいまだに、苦い思いとともに記憶に残っている。
その後また彼は転校していったのだが、
今どこで何をしているのだろう。

もうひとつ。
社会科の先生で、いつもボソボソ話をする先生がいた。
生徒には全く向き合わず、
自分のこなすべきことだけしか考えていないように見えた。
精気のない、無表情で必要なことだけ話し、板書する。
それだけで一部の同級生たちの悪戯の的となった。
先生が来る前に教卓におもちゃやパンなど
どうでもいいものを載せておいてその反応を見る。
大抵その先生はそれを無視した。
そんなことが続くと、今度はみんな授業を聞かなくなった。
聞こえるか聞こえないかぐらいの声で
「静かにしてくれないか」
と言うだけで、ほとんど諦めているように見えた。
ある夏休み明け、その先生が休み中に自殺したと聞いた。
今考えると、相当重症な鬱だったのだろう。
それでも心の病に理解のない時代。
無理やり自分の心に鞭打って出勤してきたに違いない。
ともあれ、1ヶ月もしないうちにその先生のことは忘れられていった。
少なくても話題に上ることはなくなった。
しかし、私は50年近くたった今でも忘れることはできない。

中学生時代というのは残酷だ。
自我は持ち始めるものの、自分のことだけで精一杯で
他人を慮ることができない。
そんな時代の苦い記憶が、中学時代の嫌な記憶につながっている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする