お寺さんぽ Ver.03

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般若菩薩 (仏像・菩薩)

2008年01月05日 | 仏像
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は…どっかで像を見たらぜひ教えて欲しい、単語はよく聞くけれど実際にほとんど見られない、「般若菩薩(はんにゃ・ぼさつ)」についてです。

日本で「般若経典」での本尊。
知恵を象徴する存在・菩薩なんですが……そうですね、ひでる所持の本では書かれていないものがほとんどでした。
いったい、どんな方なんでしょう?

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※この絵が「般若菩薩」です。

般若菩薩、別名「般若波羅蜜多菩薩(はんにゃはらみた・ぼさつ)」で梵名は「プラジュニャーパーラミター」…うわうわ、練習しないと言えません(笑)
もっとも初期に成立した、「大乗経典」を偶像化したものだそうです。
もともと、もやもやっとしたガスみたいな存在なんですよ。(←失礼)
その「大乗経典」ってーのは、ごく簡単に”あらゆる物事は「空」なんだよ””自分が成仏するためには他の全ての生き物たちを救いたいという心が大切なんだよ”、っていう教え。

「般若仏母(はんにゅ・ぶつも)」とも称されます。
般若(はんにゃ)ってーのは、仏教での修行によって得られた悟りの智慧(ちえ)を示します。仏教の真理そのまま、正しく物事を認識して判断する能力、みたいなもの、ですか。
ぱっと思いつくであろう「嫉妬した女の顔」という、同名の能面(※写真ですね)はまったく関係なく、当然ですが「萩原流行」さんともまっったく関係ありません。
(※間接的に由来の元となってはいるようです)

また、仏母は梵名「プラジュニャーパーラミター」が女性名詞であるためで、諸仏はこの「般若菩薩」の知恵の力によって悟りを開くことができるそうです。
”諸尊の母”とされているのは、そんな理由。

通常は菩薩として描かれ、密教では胎蔵界曼荼羅・持明院の中央尊。
この際は三目六臂でそれぞれ異なる印を結び、一臂は白蓮華を持っています。
六臂は、「六波羅蜜」という、”菩薩が行う六つの実践業”を象徴したものとされています。
虚空蔵院におられる場合は、ニ臂の般若仏母。
ほかに甲冑を身に着けるもの、手に経箱を持つもの、知恵の剣を持つものなど様々。
眷属には大般若経を守護する、四天王を含む十六神「十六善神」を伴い、般若十六善神として表されます。

結構スゴイ方なんですが、日本で信仰はなく、彫刻にも絵画にもあまり登場しないシンボル的な存在みたいなの。
見かけないのは、そんなんが原因なのでしょう。


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※おまけ:般若心経(はんにゃしんぎょう)
宗派によって呼び方は様々。
大乗仏教の空・般若思想を説いた経典の1つで、僅か三百字足らずの本文に大乗仏教の心髄が説かれている…そうなのです。

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愛憎劇は悲劇の結末 (戦国メロドラマ劇場~岩村城)5

2008年01月05日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は、特別企画「戦国メロドラマ劇場」のラストをお送りいたします。
当時を知ることのできる、大変に興味深いエピソードの一つ。
戦国時代で起こった、まるで昼ドラのような愛憎劇、その結末をお楽しみ下さいませませ。

元亀元年(1570)
西上作戦の武田勢。
それと同時に、信濃・高遠城城主「秋山信友」は伊那口から東美濃へと進出。
美濃国(恵那郡)岩村城を無血開城させ、和議の条件として結婚を申し入れられた「遠山夫人」はそれに快諾。
なんと、つい先日まで敵方として戦っていた相手と夫婦になってしまうのでした。

上村合戦※あるいはこの戦いで「遠山景任」は怪我をした、戦死したという説もあるようです)では、結集した”三遠山”の「遠山景行」らを破り、逃れた景行は岩井戸砦へ退いてこれをよく守っておりりましたが、後に力尽きて自刃。
こうして、東美濃はほぼ武田方の支配下となってしまうのでした。

岩村城から岐阜城まではわずか十五里程度。
まさに喉元へ刃を突き付けられたような状況で、「織田信長」は何度かその奪還を試みたようでしたが、四方を敵に囲まれた状況で派兵もままならず、またよく守った「秋山信友」は織田勢を寄せつけなかったのです。

西上を開始した「武田晴信」
元亀三年(1572)に信長の盟友「徳川家康」を「三方ヶ原合戦」で破った武田勢の進軍速度はなぜか鈍り、翌四年には不可解な撤退を始めるのでした。

そう、にわかに発病した晴信はそのまま病死していたのです。

この急な事態によって、将軍「足利義昭」の包囲網は瓦解。
武田勢の撤退から余裕の出た「織田信長」は散らばっていた勢力を各個撃破し、桶狭間以来の危機を脱したのでした。
英雄には運がつきますが、この信長という人も桶狭間の豪雨、「武田晴信」の病死、「上杉謙信」の病死など、なにかと強運の持ち主なのです。

続く天正三年(1575)には三河・長篠城を武田勢が攻撃したことから「長篠合戦」となり、当主晴信に代わっていた「武田勝頼」は織田・徳川の連合軍によって大敗を喫するのです。

これにより、東美濃での情勢は逆転
ついに三万の兵と共に進出した「織田信長」、そして頼れる嫡男「織田信忠」はよく支えていた岩村城に対して兵糧攻めをとり、五ヵ月に渡る攻略戦の末に和議を持ちかけるのです。

「叔母の城なので兵火にさらすのはしのびない。和睦としようではないか…」

長期戦で守備隊も限界が近く、また現在の武田勢では援軍もままならないと判断した「秋山信友」はその和議を受け入れて開城。
自ら助かると思うほど甘い人でないと思いますが…妻「遠山夫人」の助命ならば叶うと判断したのか、どうか。

裏切られることを何よりも嫌う、猜疑心強い「織田信長」
あの四面楚歌という状態での肉親の裏切りは、ひどく腹に据えかねていたようなのです。

開城すると、あっさり条件を違えた信長は「秋山信友」、その正妻「遠山夫人」、岩村城・遠山氏の一族らを捕縛。
捕らえられたそれぞれは長良川原で磔にされた上、処刑されることとなるのでした。
処刑される際、「遠山夫人」は信長に対し、恨みの言葉を残したとされております。

こうして、世にも奇妙な「戦国メロドラマ劇場」は残酷な結末で終わるのです。
…まぁ、詳しく何があったのかは不明ですが、信長くんのお怒りも分かるような気はしますねぇ。


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※裏切られることが何より嫌いな信長くんです。
 この方はよく約束を反故にしてるんですが、今回も怒りそのまま爆発してしまいました。
 あちゃー。

敵同士の婚姻、無血開城の秘密 (戦国メロドラマ劇場~岩村城)4

2008年01月05日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は、特別企画「戦国メロドラマ劇場」の続編をお送りいたします。
当時を知ることのできる、大変に興味深いエピソードの一つ。
戦国時代で起こった、まるで昼ドラのような愛憎劇をお楽しみ下さいませませ。

元亀元年(1570)
ついに西上を決意した「武田晴信」
主力を率い、「徳川家康」の領地である遠江へと進入。
同時に、信濃・高遠城城主「秋山信友」を伊那口から東美濃へと進出させ、美濃国(恵那郡)岩村城の「遠山景任」と対決するのです。
戦死あるいは病死した景任の後を継いだ信長の叔母にあたる「遠山夫人」はよく城を守っておりましたが、いつしか無血開城となり、和議の条件として結婚を申し入れられた「遠山夫人」はそれに快諾
なんと、つい先日まで敵方として戦っていた相手と夫婦になってしまうのです

すごい話でしょ?
これが、それなりに実際あったことのよう(…だと思う。わかんないけど)なのが、スゴイこと。
事実は小説より奇なりとはよく言ったものです。

ただ、なんだか釈然とはしませんよね。…よね?
そんな訳で、ちょっと考えてみました。
なお、下記はひでるさんがテキトーに考えたものなので、間違っていたりしても責任とりませんのであしからず。
言いふらしたりすると恥ずかしいかもしれませんよぅ。

1)美形な「遠山夫人」に「秋山信友」が一目惚れした。
 織田家は美形揃いでしたから、「遠山夫人」もそれなりな容姿だったと思います。
 一方、当時の信友は三十代くらい?年齢から想像するに結婚は二度目?再婚って書かれていた本もありましたが。
 敵方の将と心を通じ合わせるなんて…きゃー!って女性が好きそうなシチュエーション(?)ですが、おそらくお互い交渉時まで顔見てないと思います。
 …ないか。
 
2)女性ながら守備隊を立派に指揮する「遠山夫人」に「秋山信友」が関心し、惚れ込んだ。
 これは少しくらいはあるでしょうね。
 「荒木村重」の例でもあるように、普通は当主不在となった城なんて脆いもの。
 後を引き継いで女性の身で頑張っていたんですから、やはり関心したとは思うのです。

3)城の士気が著しく低下し、支えきれなくなった。
 城主景任が死去し、援軍も望めない状況で守備隊の士気が大幅に低下。
 もう降伏以外に道がなくなってしまったのです。
 …という、2とは逆に「遠山夫人」の指揮に兵が反発したケースですね。こっちもありえるかもしれません。
 敵将の女性を妻を迎える、迎えられるというのは、力を示すという意味でありえることでしょう。
 「遠山夫人」も死にたくないでしょうし。
 
4)落日の織田氏に見切りをつけ、武田方に鞍替えした。
 景任は死去し、彼との子もない「遠山夫人」
 信長からは御坊丸を送られていますが、さして援軍もないという状況。
 このまま籠城しても埒があかず、また生きながらえたとしても他人の子が継ぐだけのこと。
 …それなら、いっそのこと勢いある武田に乗り換えてしまおう、って考えたかな?

5)自らの身を犠牲にした。された。
 先が望めぬ展開から、よく頑張ってくれた兵を助けるため、自らの身を差し出して降伏した。
 あるいは、逆に兵たちが生きながらえるため、降伏の証として差し出されてしまった、か。
 
ともかく、何かしらの思惑・謀略によって、城は陥落。
岩村城を無血開城させた「秋山信友」はその城代へと任命されました。
信友は「遠山夫人」と再婚し、預かっていた「御坊丸」は人質として甲斐まで送ってしまったのでした。
ひでえ。
※なお、「御坊丸」は「武田晴信」の養子(まぁ人質ですけどね)となり、天正九年(1581)には「武田勝頼」によって無事送り返されています。

⇒ つづく。
  次回はラスト「愛憎劇は悲劇の結末」(5/5)

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※ぴったりなタイトルがありましたんで掲載。
 まぁ、恋愛がため結婚したのではないでしょうけどね。

戦う女城主の決断 (戦国メロドラマ劇場~岩村城)3

2008年01月05日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も、特別企画「戦国メロドラマ劇場」の続編をお送りいたします。
当時を知ることのできる、大変に興味深いエピソードの一つ。
戦国時代で起こった、まるで昼ドラのような愛憎劇をお楽しみ下さいませませ。

利害の一致から、同盟関係となっていた武田・織田の両家。
しかし、めまぐるしい情勢の変化から、西上の機会を得た「武田晴信」は同盟を破棄し、反信長の盟主として挙兵するのでした…。


元亀元年(1570)
ついに西上を決意した「武田晴信」は駿河より遠江、そして三河から尾張へ進入するという、かつての「今川義元」も選んだルートをとりました。
現在は違いますが、当時は尾張(愛知)から美濃(岐阜)、そして近江(滋賀)へと至る道筋が基本だったのです。
ここで晴信自身は主力を率い、「徳川家康」の領地である遠江へと進入。
この徳川家とは当初定めていた領土分割案を武田家が一方的に破ったことで、もともと揉めていたのでした。

また同時に、後の進路となる美濃については、信濃・高遠城城主「秋山信友」に攻撃を命じております。
この命令からも、「秋山信友」に対する信頼の高さが伺えます。
兵を率いた信友は伊那口から東美濃へと進出しました。

さて、東美濃国を支配していた”三遠山”と言われる、苗木城、岩村城、明知城の各遠山氏。
明知城主「遠山景行(とおやま・かげゆき)」、苗木城主「遠山友忠(とおやま・ともただ)」、「遠山直廉(とおやま・なおかど)」、そして、今回の主要人物、美濃国(恵那郡)岩村城の城主の「遠山景任(とおやま・かげとう)」らは織田へ救援を求めてそれに対抗します。

岩村城の「遠山景任」は信長の命により援軍として入った、「明智光秀」と共に戦っております。
しかし、当時の織田氏は近江浅井、越前朝倉、加賀・伊勢・摂津石山の本願寺一向一揆勢ら四方を敵に囲まれた四面楚歌というべき状態で、援軍にも難儀するような有様でした。

よく城を守っていた景任ですが、この攻城戦の際に戦死あるいは病死したと伝えられています。
信長の叔母にあたる「遠山夫人(※写真:名前は諸説あって、はっきりしておりません)」には子がなかったこともあり、「織田信長」は当時六歳の御坊丸(後の勝長)をその養子・城主として送り込んでおります。


しかし、御坊丸がまだ幼少であったことで、守備隊の采配をとっていたのはその「遠山夫人」だったのです。
本来はありえない、”女性が城主となる例”はこのように一時的なものであれば各地に例があります。
こちらの岩村城遠山夫人も女性ながら、夫の後を継いでよく城を守っておりました。

…それが、いつしか無血開城となり、和議の条件として結婚を申し入れられた「遠山夫人」は快諾。

なんと、つい先日まで敵方として戦っていた相手と夫婦になってしまうのでした。

⇒ つづく。
  次回は「敵同士の婚姻、無血開城の秘密」(4/5)

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※まぁ、一豊の奥方は置いといて。
 戦国時代の女性というのは、現代の我々の感覚からではなかなか想像しずらいものだと思います。
 とりあえず…悲劇の代表みたいな、誤った見方はしないほうがいいと思います。
 ちゃんとした役割・使命のもと、一生懸命に生きていたのでしょうから。

破綻する武田・織田の同盟関係 (戦国メロドラマ劇場~岩村城)2

2008年01月05日 | 歴史
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本日は、特別企画「戦国メロドラマ劇場」の続編をお送りいたします。
当時を知ることのできる、大変に興味深いエピソードの一つ。
戦国時代で起こった、まるで昼ドラのような愛憎劇をお楽しみ下さいませませ。

さて、にわか同盟関係となった武田、織田の両家。
将軍「足利義昭」を担いで近畿へと進出した「織田信長」はその権威を十分に利用しつつ勢力を拡大させますが、自らの立場を傀儡と悟った義昭はこれに反発。
両者の仲は険悪なものとなりました。

自らの軍隊を持たない将軍「足利義昭」は方々の有力大名へとへ密書を送り、信長打倒を画策するようになりました。
彼の乱発した密書は遠く薩摩は島津氏にまで届いていたようですが、それが本気だったのかは置いて(笑)、反信長の候補として、もっとも期待されたのが甲斐信濃の「武田晴信(※写真)」でした。

現在でも最強軍団という感のある武田家。
これは戦国時代当時の人々も同様な感覚だったようなのです。

こんなエピソードがあります。
三好、織田、毛利の三家のうち、どの傘下へ入ろうか迷っていた、播磨・御着城の「小寺政職」さま。
理路整然と織田家を推す家老「黒田官兵衛孝高」の言葉は納得できるものの、どうにも決めかね、逡巡していたのです。
しかし、天正三年(1575)の「長篠合戦」にて織田家が武田家を散々に打ち破った事実を確認し、ようやく重い腰を上げるのです。
”あの武田を破った織田の勢いは本物”
…と、いうことなのでしょう。

ちょっと話が逸れました。
当時の人々からもその実力を恐れられていた武田家、そして当主「武田晴信」
この晴信という人は損得勘定に明るい大将で、その行動には常に「利」が考えられておりました。
信濃への道をひらくがため婚姻関係だった諏訪氏に攻撃を仕掛け、海に面した駿河を手中にするため、弱体化した今川氏を攻めるなど、過去にとらわれず弱みを見せた相手を容赦なく攻めるという戦略をとっております。

さて、一方の「織田信長」は近畿と将軍を押さえ、時の勢いに乗っておりました。
がしかし、謀略によって各大名の目を中央に向けさせることに成功した将軍「足利義昭」により、四方を敵とされていたのです。
将軍からの上洛要請について、「武田晴信」は快諾しております。

戦略面で言えば、関東に広がる北条氏は強大で、また軍神「上杉謙信」率いる上杉氏との抗争は”損害多く利少ない”というもの(笑)でしたから、北、東への進軍はどちらも難しいものでした。
その点、西方面の織田、徳川は前者より組みしやすく(※と、考えていたと思う)、広大な平野と発展した国で土地もよく、また彼らは将軍「足利義昭」の包囲網によって窮地に立たされておりました。

さらに、西への進路はそのまま京へと繋がり、あるいは天下を望める可能性も広がるのです。
こうした選択で、「武田晴信」が織田家との同盟破棄の道に進むのは当然の成り行きなのでした。

⇒ つづく。
  次回は「戦う女城主の決断」(3/5)

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※そんなこんなで「晴信さま」
 大した方だとは思いますよ、ええ。…好きではないですが(笑)

愛憎入り乱れるドロ沼関係 (戦国メロドラマ劇場~岩村城)1

2008年01月05日 | 歴史
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本日は…「戦国サスペンス劇場」に続く特別企画、「戦国メロドラマ劇場」をお送りいたします。

こちらは知っている方には有名なお話ですよね。
当時を知ることのできる、大変に興味深いエピソードの一つだと思われます。
戦国時代で起こった、まるで昼ドラのような愛憎劇をお楽しみ下さいませませ。


永禄八年(1565)
斎藤氏を下して美濃を攻略し、ついに矛先を京へと向けた「織田信長(※写真)」
織田家としては、近畿方面へ進出するために後方である東を固めておきたかったのです。

一方、甲斐の「武田晴信」は信濃攻略をひと段落させ、支配が弱まった上野(駿河も)へと兵を進めたい意志がありました。

こうして、両者の利害がとりあえず一致したこともあり、信長の提案で”武田家四男「武田勝頼」に信長の養女とされていた「遠山氏の娘」を嫁がせる”という政略結婚は無事進み、両家は同盟関係となりました。

さて、その嫁いだ娘は美濃国にて”三遠山”と言われる一家、苗木城遠山氏の出身。さらにもう一家、今回主役の岩村城遠山氏の妻は「織田信長」の叔母。
さらにさらに、織田家との政略結婚を積極的に賛成・推進したとされているのが、主役の一人、武田ニ十四将「秋山信友(あきやま・のぶとも)」だったのです。
それぞれの不思議な巡り合わせは、既にこんなところから始まっていたのかもしれませんね。

さて、こちらの「秋山信友」は甲斐・武田家の侍大将でした。
武田家と同様に甲斐源氏を祖とした名族であり、周辺有力国人の一家だったと想像されます。
それが父「武田信虎」時代からか、いつしか武田家に仕えるようになっておりました。とりあえず、信友の父の代ではもうその配下となっております。

戦場での槍働きを得意とする武将の多い武田勢にあって、この信友は戦場での功だけでなく、情報収集・分析にも優れておりました。
実際、彼の軍団は五十騎、兵二百という規模の小さいものでしたが、謀略・折衝などを巧みに活用して戦果を上げるという、知将だったのです。
(※ずっとそんな小部隊ではなかったようですが。念のため)
「武田晴信」の信頼は厚く、信濃国(長野県)の高遠城を守備し、時にはその名代として行動することもあったほどなのでした。

【 おまけ:織田氏略系図 】 ※だいたいこんなんです。★印は今回ネタの関係者。

信貞(信定)
 ↓
信秀-信康-信広-信光-信次-★遠山夫人
 ↓
信広-★信長-信行-信包-信治-信時-信興-秀成-長益(有楽斎)-長利
      ↓
     信忠-信雄-信孝-★勝長(御坊丸)-信高-信貞-信好-長次
      ↓
     秀信-秀則


⇒ つづく。
  次回は「破綻する武田・織田の同盟関係」(2/5)

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 いやー城はやっぱりいいもんですねぇ。