のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も”賤ヶ岳の七本槍”の一人で、加藤とくれば…「清正」なんですが、もう一人「加藤嘉明(かとう・よしあき)」さまをお送り致します。
たいていの主要合戦に参加していながら良くも悪くも派手さなく、ドラマなどでもあまり取り上げられない、ちょっと不幸な嘉明さまの一生を是非ご覧下さいませ。
父「加藤教明(かとう・のりあき)」は三河・松平氏の家臣。
しかし、「三河一向一揆」にて、うっかり一揆勢に属してしまった教明は浪人し、近江へ辿り着くのでした。
子の嘉明は馬喰(ばくろう)に養われますが、その際に馬術ほかに馬に関する知識を吸収していったのです。
さて、岐阜(美濃)へと馬を売りに行った若き「加藤嘉明」はそこで「織田信長」に仕える「加藤景泰(かとう・かげやす)」と接触しました。
まぁ、当時馬を必要としているのは武士か豊かな農民あたりでしょうから、岐阜へ赴いた彼が織田方の誰かしらと会うのは当然なのかもしれません。
時期的にも、斎藤氏を倒して勢いのあった織田家です。
あるいは、いい商売相手になるかもしれない、と考えたのかもしれませんね。
なお、先の「加藤景泰」は同じ加藤姓ですが、嘉明とはまったく関係はありません。
ちなみに、清正とも無関係です。
美濃国・多芸群の小領主。
斎藤氏から、織田・羽柴(豊臣)氏に仕えた方で、後に甲府二十四万石を得る「加藤光泰(かとう・みつやす)」の父なのです。
さて、嘉明の連れる馬を見た景泰は、
「駿馬だが、癖が強い」
と難色を示したところ、
「自分なら乗りこなしてみせる」
と言い、見事嘉明はその通りにしてみせたのです。
それに感服した景泰は才を惜しみ、「羽柴秀吉(※写真)」へ推挙した…とされております。
これがどこまで真実かはさておき、いつの時代でも一芸に秀でているというのは、後の人生を大きく左右しますね。
”芸は身を助ける”
というのは本当なのですよ、そこのお母さま。
勉強だけが人生ではないのですよ!
こうして、後の太閤「木下藤吉郎(羽柴秀吉)」に見出された「加藤嘉明」は、その小姓として仕えることとなったのです。
そんな嘉明さまの人柄を知るエピソードを一つ。
しつけに大変厳しい武将で、家中のものには”帯を前脇で結ぶよう厳命していた”そうなのです。
その理由を問われると、
「帯を後ろで結んでいると、緊急時に遅れを取る。前脇であれば走りながらも結べ、また解けても結びなおしが容易い」
常に危機意識を持ち、事に対処できるよう気を配っていたんですね。
⇒ つづく。
次回は「活躍する加藤くん、賤ヶ岳合戦に参加」(3/5)
[関連記事] 【豊臣政権セット】
⇒ 意外と知らない信長死後 「清洲会議」 [1 2 3 4 5]
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⇒ 奮戦・前田利家「末森城合戦」 前編 後編
⇒ まつさん[芳春院] 前編 後編
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⇒ 佐和山城址(滋賀) 基本知識編 現地レポート編
⇒ 行こう!「関ヶ原古戦場・石田三成陣跡」
⇒ 石田三成墓所 三玄院 (京都) <前 後>
⇒ 秀次切腹と石田三成 [1 2 3]
⇒ 宇喜多秀家 <前 後>
⇒ 文武二道・会津に適う人物 「蒲生氏郷」 [1 2 3 4 5 6 7]
⇒ 二大英雄の子「結城秀康」 [1 2 3 4]
⇒ 豊臣秀頼公首塚 清涼寺(京都)
⇒ 豊臣秀勝公菩提寺・妙法寺 (滋賀)
⇒ 真田昌幸 (長野・上田城)
⇒ 名人と呼ばれた武将「堀秀政」
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※加藤…ということで……「加藤登紀子」さん。
歴史人物以外の有名人で最初に頭に浮かぶのはこの方ですかね。
本日も”賤ヶ岳の七本槍”の一人で、加藤とくれば…「清正」なんですが、もう一人「加藤嘉明(かとう・よしあき)」さまをお送り致します。
たいていの主要合戦に参加していながら良くも悪くも派手さなく、ドラマなどでもあまり取り上げられない、ちょっと不幸な嘉明さまの一生を是非ご覧下さいませ。
父「加藤教明(かとう・のりあき)」は三河・松平氏の家臣。
しかし、「三河一向一揆」にて、うっかり一揆勢に属してしまった教明は浪人し、近江へ辿り着くのでした。
子の嘉明は馬喰(ばくろう)に養われますが、その際に馬術ほかに馬に関する知識を吸収していったのです。
さて、岐阜(美濃)へと馬を売りに行った若き「加藤嘉明」はそこで「織田信長」に仕える「加藤景泰(かとう・かげやす)」と接触しました。
まぁ、当時馬を必要としているのは武士か豊かな農民あたりでしょうから、岐阜へ赴いた彼が織田方の誰かしらと会うのは当然なのかもしれません。
時期的にも、斎藤氏を倒して勢いのあった織田家です。
あるいは、いい商売相手になるかもしれない、と考えたのかもしれませんね。
なお、先の「加藤景泰」は同じ加藤姓ですが、嘉明とはまったく関係はありません。
ちなみに、清正とも無関係です。
美濃国・多芸群の小領主。
斎藤氏から、織田・羽柴(豊臣)氏に仕えた方で、後に甲府二十四万石を得る「加藤光泰(かとう・みつやす)」の父なのです。
さて、嘉明の連れる馬を見た景泰は、
「駿馬だが、癖が強い」
と難色を示したところ、
「自分なら乗りこなしてみせる」
と言い、見事嘉明はその通りにしてみせたのです。
それに感服した景泰は才を惜しみ、「羽柴秀吉(※写真)」へ推挙した…とされております。
これがどこまで真実かはさておき、いつの時代でも一芸に秀でているというのは、後の人生を大きく左右しますね。
”芸は身を助ける”
というのは本当なのですよ、そこのお母さま。
勉強だけが人生ではないのですよ!
こうして、後の太閤「木下藤吉郎(羽柴秀吉)」に見出された「加藤嘉明」は、その小姓として仕えることとなったのです。
そんな嘉明さまの人柄を知るエピソードを一つ。
しつけに大変厳しい武将で、家中のものには”帯を前脇で結ぶよう厳命していた”そうなのです。
その理由を問われると、
「帯を後ろで結んでいると、緊急時に遅れを取る。前脇であれば走りながらも結べ、また解けても結びなおしが容易い」
常に危機意識を持ち、事に対処できるよう気を配っていたんですね。
⇒ つづく。
次回は「活躍する加藤くん、賤ヶ岳合戦に参加」(3/5)
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⇒ 真田昌幸 (長野・上田城)
⇒ 名人と呼ばれた武将「堀秀政」
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※加藤…ということで……「加藤登紀子」さん。
歴史人物以外の有名人で最初に頭に浮かぶのはこの方ですかね。