お寺さんぽ Ver.03

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馬喰の加藤くん、推挙される (加藤嘉明)2

2008年01月14日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も”賤ヶ岳の七本槍”の一人で、加藤とくれば…「清正」なんですが、もう一人「加藤嘉明(かとう・よしあき)」さまをお送り致します。
たいていの主要合戦に参加していながら良くも悪くも派手さなく、ドラマなどでもあまり取り上げられない、ちょっと不幸な嘉明さまの一生を是非ご覧下さいませ。

父「加藤教明(かとう・のりあき)」は三河・松平氏の家臣。
しかし、「三河一向一揆」にて、うっかり一揆勢に属してしまった教明は浪人し、近江へ辿り着くのでした。
子の嘉明は馬喰(ばくろう)に養われますが、その際に馬術ほかに馬に関する知識を吸収していったのです。

さて、岐阜(美濃)へと馬を売りに行った若き「加藤嘉明」はそこで「織田信長」に仕える「加藤景泰(かとう・かげやす)」と接触しました。
まぁ、当時馬を必要としているのは武士か豊かな農民あたりでしょうから、岐阜へ赴いた彼が織田方の誰かしらと会うのは当然なのかもしれません。
時期的にも、斎藤氏を倒して勢いのあった織田家です。
あるいは、いい商売相手になるかもしれない、と考えたのかもしれませんね。

なお、先の「加藤景泰」は同じ加藤姓ですが、嘉明とはまったく関係はありません。
ちなみに、清正とも無関係です。
美濃国・多芸群の小領主。
斎藤氏から、織田・羽柴(豊臣)氏に仕えた方で、後に甲府二十四万石を得る「加藤光泰(かとう・みつやす)」の父なのです。

さて、嘉明の連れる馬を見た景泰は、
駿馬だが、癖が強い
と難色を示したところ、
自分なら乗りこなしてみせる
と言い、見事嘉明はその通りにしてみせたのです。
それに感服した景泰は才を惜しみ、「羽柴秀吉(※写真)」へ推挙した…とされております。

これがどこまで真実かはさておき、いつの時代でも一芸に秀でているというのは、後の人生を大きく左右しますね。
芸は身を助ける
というのは本当なのですよ、そこのお母さま。
勉強だけが人生ではないのですよ!
こうして、後の太閤「木下藤吉郎(羽柴秀吉)」に見出された「加藤嘉明」は、その小姓として仕えることとなったのです。

そんな嘉明さまの人柄を知るエピソードを一つ。
しつけに大変厳しい武将で、家中のものには”帯を前脇で結ぶよう厳命していた”そうなのです。
その理由を問われると、
帯を後ろで結んでいると、緊急時に遅れを取る。前脇であれば走りながらも結べ、また解けても結びなおしが容易い
常に危機意識を持ち、事に対処できるよう気を配っていたんですね。

⇒ つづく。
  次回は「活躍する加藤くん、賤ヶ岳合戦に参加」(3/5)

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※加藤…ということで……「加藤登紀子」さん。
 歴史人物以外の有名人で最初に頭に浮かぶのはこの方ですかね。


知ってる?七本槍の加藤くんは二人いる (加藤嘉明)1

2008年01月14日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
”賤ヶ岳の七本槍”の一人で、加藤とくれば…「清正」ですよね。普通は。
しかし、実はもう一人加藤くんがいるというのは、一般の方はあまり知らないでしょう。
戦国時代に詳しい方なら間違いなくご存知であろう、本日は「加藤嘉明(かとう・よしあき)」さまなのでした。

この方、たいていの主要合戦に参加していながら良くも悪くも派手さなく、また同じ加藤姓では人気の高い「加藤清正」さまが近くにおられるので、どうしても一歩地味なイメージなのですね。たぶん。
ドラマなどでも端役の方がやるか、あるいは役自体がなかったりします(笑)
ああ、気の毒。
そんな訳で、”賤ヶ岳の七本槍”のひとり「加藤嘉明」さまです。

その父「加藤教明(かとう・のりあき:あるいは岸三之丞、広明、景喜)」はもともと三河の武士で、天下人「徳川家康」の父「松平広忠」の家臣でした。

しかし、永禄六年(1563)
「徳川家康(※写真)」最初の試練である「三河一向一揆」との戦いにて、主家・信仰のうち、信仰をとってしまった教明は一向一揆側に属し、主と対立してしまうのです。
結果的に若い家康はこの苦境に見事勝利。
それがため、教明は浪人の身となってしまうのでした。

…余談ですが、この「三河一向一揆」は鉄壁の忠誠心をもって知られる徳川家臣団が真っ二つに分かれた合戦です。
信仰も無論大事ですが、今まで今川氏のもとで不遇をかこっていた三河武士らにとって、独立した家康は希望の星なのでした。
そんな訳で、忠誠心に厚い彼らは面白いことに、戦場へ家康が出てくると「若君」ということで直接対決を避けたそうなのです。
(※この一向一揆勢は松平家臣団のほか、今川旧臣や吉良氏なども参加していたため、そんなんでも危機には違いなかったのです。当主としての力量を示す、国内統一戦というべき風情だったみたいなのよ)
ちなみに、後の参謀「本多正信」もこの戦では一向一揆側に参加していたりします。

さて、今回の主役「加藤嘉明」はこうした年に誕生しました。
幼名は「孫六」、後に「左馬助(さまのすけ)」
浪人した父教明は後に秀吉が居を構える近江・長浜へ辿り着いたらしく、子の嘉明も十二歳頃まではそちらで馬喰(ばくろう)に養われておりました。
この「馬喰」というのは、牛馬の売買ほか、その病気を治したりしていた職業のようなのです。
…要するに、馬に関してのプロフェッショナルでして、その手伝いをしていた嘉明はここで馬術のほか、関連知識を得たのでした。

⇒ つづく。
  次回は「馬喰の加藤くん、推挙される」(2/5)

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※加藤…ということで……「加藤ローサ」さん。
 ひでるさん、カレンダーは一度も買ったことないですねー。