酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「落下の解剖学」~真実と事実の狭間を彷徨う法廷劇

2024-03-15 22:28:55 | 映画、ドラマ
 将棋ファンは誰が藤井聡太八冠を倒すのかに関心を持っている。竜王戦、棋王戦の挑戦者になり、叡王戦の挑戦者決定トーナメント決勝で永瀬拓矢九段と戦う同学年(21歳)の伊藤匠七段、C級1組への昇級を決めた18歳の藤本渚五段に注目が集まるのは当然だが、〝地獄の奨励会三段リーグ〟を14勝4敗で突破して新四段になったのは、ともに年齢制限が迫った25歳の山川泰煕、24歳の高橋佑二郎の2人である。

 山川は「モノクロームの日々だった」と振り返り、高橋は昇段後に溢れる涙を拭っていた。遅咲きといえる両者だが、山川を上記の永瀬が、高橋を佐々木勇気八段が研究会に誘って後押ししていた。勝者と敗者が明暗をくっきり分ける将棋界の常だが、だからこそ先輩が苦しんでいる後輩に手を差し伸べる〝美風〟が残っていることを感じさせるエピソードである。

 カンヌ映画祭でパルムドールに輝き、アカデミー賞でも脚本賞を受賞した「落下の解剖学」(2023年、ジュスティーヌ・トリエ監督)を新宿で見た。ある男の転落死を巡るサスペンスで、法廷を舞台にしたフランス映画といえば「サントメール ある被告」が記憶に新しい。本作との共通点は、<事実と真実の境界>が次第に曖昧になることだ。

 雪山の山荘に、改築に取り組む教員のサミュエル(サミュエル・タイス)、流行作家のサンドラ(サンドラ・ヒュラー)、視覚障害を抱えるダニエル(ミロ・マシャド・グラネール)の家族3人と犬のスヌープが暮らしている。ちなみに山荘がある場所はサミュエルの生まれ故郷でもある。階段を落ちてくるボールをスヌープが追いかけたり、散歩に出たダニエルが投げ捨てた枝をスヌープが拾ったりと、〝落下〟のイメージが犬目線で挿入されていた。ダニエルと山荘に戻ったスヌープが、雪道に横たわるサミュエルの転落死体を発見する。

 事故か、自殺か、殺人か……。これが本作のキャッチフレーズだが、後半に進むにつれて法廷がメーンになると、〝家族の解剖学〟の様相を呈していく。冒頭で女子学生がサンドラのインタビューに訪れていたが、最上階で作業するサミュエルが爆音で50セントのインスツルメント盤を流していた。歌詞は女性蔑視的表現に溢れている。サンドラがバイセクシュアルであることが明らかになり、検事(アントワーヌ・レナルツ)は<サミュエルは妻が女子大生を誘惑する邪魔をしたのではないか>と推論を提示する。

 殺人罪で起訴されたサンドラの弁護を旧知のヴァンサン(スワン・アルロー)が買って出る。ヴァンサンは若い頃に一目惚れしたが、サンドラは出会いの時を覚えていないと語る。縮まりそうで縮まらない両者の距離を象徴するのは、サンドラがヴァンサンに「動物に似ていない人は信じない」と話すシーンだ。作家としての感覚が窺える言葉であり、犬のスヌープがストーリーで大きな役割を果たしていることを暗示していた。

 本作の軸になっているのは、サミュエルとサンドラの夫婦関係だ。ドイツ人のサンドラとフランス人のサミュエルは英語で会話する。サンドラは作家として成功し、サミュエルは挫折した。さらに、ダニエルが事故に遭って視覚障害を抱えたのも、自分がヘルパーに運転を頼んだからという悔いがある。証拠として提出された事件前日の口論を録音したテープにも夫婦の深い溝が刻まれているが、サンドラがサミュエルを殺したという確証はない。

 冷徹に事実を見据えるべき検事が、自分なりの〝真実〟にからめとられ、サンドラの小説に言及し始める。弁護団に「小説と本人を重ねるなら、スティーヴン・キングは連続殺人犯だ」と反論され、引き下がる。<真実は一つではなく、個人の数だけ存在する>という陥穽に取り込まれたのだ。

 ハイライトといえば、最後にダニエルが証言するシーンだ。父母の闇を知らされたダニエルだが1年間で成長し、自らの言葉で〝真実〟を語る。体調を崩したスヌープを連れて病院に向かう車中、サミュエルは自らとスヌープを重ねるようにして息子に人生を説く。スヌープはダニエルの盲導犬と感じていたが、サミュエルの〝化身〟であったことに気付く。

 ラストでは帰宅してソファに寝そべるサンドラを癒やすようにスヌープが横たわる。本作の主役はスヌープだったのか……。もう一度見たら、別の構図が浮き上がってくるかもしれない。
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