酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「オペレーション・ノア」~36年後を見据えた野坂昭如のペシミスティックな預言

2017-05-10 22:34:13 | 読書
 一昨日(8日)、紀伊國屋寄席に足を運んだ。柳亭市江「熊の皮」→古今亭文菊「笠碁」→三遊亭圓窓「そば清」→仲入→春風亭一之輔「蜘蛛駕籠」→柳家さん喬「寝床」と高座は進む。ビートと毒が臨界点に達した〝ホール落語〟に慣れていたが、年齢層の高い「紀伊國屋寄席」は空気が異なる。手練れの芸をまったり楽しんだ。

 フランスと韓国で対話を掲げたマクロン、文氏が新大統領に決まった。俺の感想は「隣の芝は青い」……。マクロン候補はメランション支持の若者票を取り込み、文候補の選挙戦を支えたのは10~20代の若者たちである。翻って日本はどうか。意思表示を忌避するどころか嗤う傾向は、とりわけ若い世代に顕著だ。変革への思いが芽吹くことなく枯れてしまった時、この国は脳死を至るだろう。

 野坂昭如の訃報に接した時、「オペレーション・ノア」(1981年)を再読しようと手に取ったが、活字の小ささ(2段組み)にたちまち放り出す。仕事先でS君にその旨を話したところ、「文庫は大きめだから、アマゾンで注文しましょうか」と提案してくれた。確かにその通りで、帰省を挟んで上下巻(文春文庫、計600㌻)を読了した。36年前の〝衝撃の感触〟が肉付きされて甦り、当時は気付かなかった野坂の巨視に感嘆した。

 高度成長期が一段落した1970年代、ペシミスティックな空気が世間を覆っていた。人口増と資源枯渇に警鐘を鳴らした「成長の限界」(72年、ローマクラブ刊)は、脱成長、脱GDP、ミニマリズム、循環型社会と再生可能エネルギーへの志向の原点となった。「非情のライセンス」最終話(80年末オンエア)のテーマになった<人間の小型化>にも同書の影響が窺える。

 70年代の日本は公害問題を抱えていた。「オペレーション・ノア」でも、公害の影響で健常な状態で生まれてこない新生児の激増が伏線になっていた。公害とファシズムが重なる展開を先駆的に示したのは「光る風」(70年、山上たつひこ)であり、その延長線上に位置するのが「オペレーション・ノア」には、野坂の社会に対する緻密な分析と情念が織り込まれている。

 商社マンの堂内は妻と娘を交通事故で亡くした後、冠がリーダーを務める藤平首相直属の「オペレーション・ノア」のメンバーに選抜される。<人縮>と<国家の縮小>を目指す秘密プロジェクトに立ちはだかったのは、アメリカからの独立と軍国化を説く南原だった。藤平は南原の意見に耳を傾け、「オペレーション・ノア」は頓挫する。堂内らは地下に潜った。

 安倍政権は北朝鮮の脅威を煽って〝失点〟隠しに懸命だが、本書では偽装された地震情報が治安強化、国民統合の具に用いられる。〝鈍牛〟イメージの藤平は安倍キャラに転じ、高い支持を背景に、福祉切り捨て、軍備増強、武器輸出を断行する。議会制民主主義は終焉を迎え、「機密防止条例」(≒秘密保護法)で規制されたメディアは沈黙する。藤平は安倍首相同様、「憲法9条に国防軍(自衛隊)を条項として盛り込む」ことを宣言する。

 日米安保破棄が決定的になる過程で、南原の正体も明らかになる。米ソと対峙する流れを急変させたのが、日本を崩壊の瀬戸際に追い込んだ金融テロである。コンピューターの持つ意味を、野坂は誰よりも理解していた。崖っ縁にゾンビの如く再登場した「オペレーション・ノア」はヒューマニズムを全否定し、ポル・ポト政権下のカンボジアを彷彿させるような〝静謐な逆行〟を目指す。

 野坂は本書で、自由と民主主義に馴染まぬ日本人の服従性と集団化を憂えていた。当時は〝絵空事〟と感じていたが、再読した今、36年後にタイムトリップして書いたかと思えるほどの野坂の予知能力に瞠目させられた。本書では原発について繰り返し言及している。<必然的に起きる原発事故で人口が減ることは、プロジェクトにとって好都合>という理由で、原発は推進される。

 展開上、主人公の堂内の存在感が希薄になっていくのは仕方がないだろう。ラストに堂内がフェードインした新宿は焼け跡闇市派の野坂の心象風景そのものだった。ジョージ・オーウェルの「1984」と匹敵するとはいわないが、「オペレーション・ノア」は21世紀の日本を見据えた預言の書といっていい。単行本も文庫も絶版なって久しいが、今の日本を憂える方には必読の書といえる。

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