弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

伊藤祐靖著「国のために死ねるか」(2)

2016-10-23 14:16:20 | 歴史・社会
199年に、能登半島沖で発生した北朝鮮不審船事件(北朝鮮の工作船に対し、海上自衛隊の自衛艦に海上警備行動が発令され、海上自衛官が立ち入り検査しようとした)について、記事にしてきました。
1999年能登半島沖不審船事件」では、事件直後の文藝春秋誌に掲載された記事から、事件を振り返りました。そして『伊藤祐靖著「国のために死ねるか」(1)』では、下記の著書から、イージス艦「みょうこう」による海上警備行動の一部始終を追いかけました。

伊藤祐靖著「国のために死ねるか 自衛隊「特殊部隊」創設者の思想と行動 (文春新書)

伊藤祐靖著「国のために死ねるか」(1)』に記載したように、立ち入り検査員に任命された自衛官たちは、船乗りであって、近接戦闘の訓練を受けたこともありません。政治家である防衛庁長官から「海上警備行動」が発令されたからには、たとえ訓練されていなくても、重武装しているであろう北朝鮮工作船に、軽武装で立ち向かわなくてはなりません。かれらは“わたくし”というものを捨てきって、最後に残った願いは公への奉仕でした。

伊藤氏は、そのようなかれらが出動しようとするのを見送りながら、「彼らは向いていない」と思っていました。向いている者は他にいる。
『立入検査隊員の彼らは、自分の死を受け入れるだけで精一杯だった。任務をどうやって達成するかまで考えていない。しかし、世の中には、「まあ、死ぬのはしょうがないとして、いかに任務を達成するかを考えよう」という者がいる。この任務は、そういう特別な人生観の持ち主を選抜し、特別な武器を持たせ、特別な訓練をさせて実施すべきであって、向いていない彼らを行かせるのは間違っている。・・・
向いていない者にこの厳しい任務を強いるのは、日本国として、これを最後にしなければならない。そのために日本は、特殊部隊を創設すべきだ。創設は私の責務だ、と強く思った。』

日本初の特殊部隊である海上自衛隊の「特別警備隊」は、この能登半島沖不審船事件を契機として、2001年に創設されたとのことです。伊藤氏も、自ら強く希望し、特別警備隊の創隊に関わることになります。足かけ8年を先任小隊長として勤務しました。
任命された初代指揮官である一等海佐(海軍大佐)も、伊藤氏も、特殊部隊については何も知りません。そのような中で、隊員を集め、1年間で教育訓練を行い、2年後には実戦配備するというのです。

初代指揮官は、「何をやるにしろ、自分が納得する作戦行動に直結した理由の説明」を求めました。そして、自分が納得したら、誰でも首を縦にふる理屈を考えてくれる、というのです。これは、従来の自衛隊とまるで異なる発想であり、伊藤氏が日本初の特殊部隊を形成する上で大きな力になりました。

特別警備隊員の選抜が始まりました。肉体的基準は当然に厳しいとして、それとは別に、この部隊への配属を熱望していることが条件でした。結果的にはだいぶ変な者たちが集まりました。海上自衛隊のはみ出し者を全部かき集めてきて、肉体的基準を突破した者だけが残ったような感じでした。
『具体的に彼らの何が変かといえば、要は、指示や命令に黙って従うタイプではないのだ。よく解釈すれば、自分がやることには納得した上でやりたいタイプ。悪く解釈すれば、文句の多いわがままな者たちだった。』
伊藤氏は、かれらに頼もしさを感じていました。それが、特殊部隊員として当たり前の姿勢だからです。残念ながら、自衛隊という組織には、合理的な判断を極端に嫌う傾向がありました。
このような集団でしたが、隊員同士のトラブルは皆無でした。

以下、特別警備隊に関して、印象に残った記述を列挙します。
○訓練には二種類あることが判ってきた。実施頻度が少しでも低くなるとすぐに技量が落ちてしまうものと、一旦修得しさえすれば技量が落ちないものがある。すぐに技量が落ちてしまうものは、拳銃の射撃精度と体力だった。射撃訓練では通常の海上自衛官が一生かかって撃つくらいの弾数を一日で撃ったし、それを毎日繰り返した。
○筋肉そのものをつけ過ぎないようにした。筋肉はより多くの酸素を必要とするからである。
○実際に米海軍特殊部隊を見たとき、個人の技量は目を疑うほどの低レベルだった。
○某国(多分英国)の特殊部隊員は、プロフェッショナリズムを強く感じさせた。
○特殊部隊の文化は、陸軍の文化である。海上自衛隊の中に特殊部隊を創るというのは、海軍の中に陸軍を創るようなもので、この文化の違いというのが、非常にやっかいだった。
○陸軍と海軍の違いは、大きく2つ、意思疎通の手法の違いと、意志決定のシステムの違いである。
海軍は、意思疎通を図るための努力を通信に傾注してきた。一方陸軍は、意思疎通がとれない場合が多いので、作戦行動中に状況が大きく変化したとき、現地部隊は指揮官の意に沿うように判断ができるよう「任務分析」を行う。
乗り物に乗って戦闘をする海軍では、意志決定をするのは艦長、機長一人であり、その他の者は艦長の目、耳、指先のようなものだ。対して陸軍の個人で行う戦闘では、すべて一人の人間が自分の責任で行う。
海上自衛隊の指揮官は、特殊部隊に対して「状況、知らせ」が口癖だった。一方、陸上自衛隊と共同訓練をした時、伊藤氏に状況を聞いてきた高級幹部は一人もいなかった。その理由を聞いたところ「始まってしまったら、現場の指揮官に自由裁量の余地を少しでも多く与えること、現場指揮に専念できる環境を整えてやること、これが僕の仕事だからね」
○伊藤氏は、訓練中に部隊全滅を覚悟したことが2回あり、いずれも、山中で低体温症に直面した時だった。そのとき伊藤氏は、陸上自衛隊のX氏から指摘された。伊藤氏らの訓練で足りないのは「自然に対する驕りです。人間は、自然には絶対に勝てません。あと、体力の温存に関する感覚の違いですかね。」

○日本という国は、トップのレベルに特出したものがない一方、ボトムのレベルが他国に比べると非常に高い。自衛隊については、兵隊や下士官は他国に比べて極めて優秀である。

○特殊戦教育を終え、実戦配備に就けたとき、仲間から「あいつとは、一緒に行かない」と言われてしまう者が出てくる。戦闘行動の真っ最中に、仲間同士での意思疎通が突然とれなくなってしまうのだ。
伊藤氏は、将来的に仲間からはじかれてしまう隊員は、精神的ストレスをかけるとギブアップする、と考えた。そして、隊員選考テストの中に、一週間の精神的ストレスをかけ続けるテストを導入した。このテストがあるため、脱落者が多く、いつまでたっても定員に満たなかった。

当初、伊藤氏は米海軍特殊部隊(SEALs)へ留学する構想でしたが、米海軍が秘密保持を理由として拒否したために行きませんでした。もし留学していたら、米国で実施されている方法の模倣になってしまったといいます。そして伊藤氏は、「米国海軍の特殊部隊は低レベルである」と判定しました。
私はこのブログで、マークボウデン著「ブラックホークダウン」について記事にしました()。これは1993年10月3日にソマリアの首都モガディシュで起きた戦闘の記録です。当時、ソマリア内戦が泥沼化しており、戦争による難民の飢餓が国際的な課題となっていました。国連は食糧援助のためPKOによる軍事的介入を行いました。
国連と米軍に抵抗する最大武装勢力はアイディド派でした。米軍は、アイディド派の幹部二人がモガディッシュの中心部のある建物で会合するという情報をつかみました。そこで米軍は、真っ昼間にヘリコプターでこの建物を急襲し、幹部二人を拘束・拉致しようと企てるのです。この作戦で、米軍の特殊部隊であるデルタフォースと、おなじく米軍のレインジャー部隊が共同作戦を行います。ブラックホークヘリコプター搭乗したデルタフォース部隊が目標の建物にロープ降下して敵を急襲し、目標の幹部二人を拘束します。別のブラックホークヘリコプター4機にそれぞれレインジャー部隊が搭乗し、建物の周辺4箇所にロープ降下し、防御陣地を構築します。それと同時にハンヴィーとトラックからなる車列が米軍基地を出発して目標の建物に到着し、拘束した敵幹部を乗せて基地に帰還する、というのです。
デルタフォースとレインジャー部隊の共同作戦といっても、役割分担が異なり、異なった位置に配置されています。
ところが、米軍のブラックホークが現地で墜落し、計画が狂います。各戦闘員が墜落したヘリコプターを目指し、デルタフォースとレインジャー部隊は混在して行動することになりました。そしてその過程で、レインジャー部隊隊員は、はじめてデルタフォースの実力を目の当たりにするのです。その結果、謎に包まれていたデルタフォースの実力が語られることになりました。
デルタフォースの実力は凄まじいものでした。まわり中からソマリア人の銃撃を受けても米兵にはなかなかあたりませんが、デルタのメンバーが発砲すると百発百中のようです。
また、部隊で作戦計画を発令する雰囲気も、デルタフォースとレインジャー部隊では異なっていました。レインジャー部隊では、指揮官が計画を説明すると隊員は「了解」するだけです。ところがデルタフォースでは、隊員から反対意見が出され、議論が始まるというのです。
伊藤氏が特殊部隊のあるべき姿として語っているのは、デルタフォースのやりかたです。伊藤氏は、米国海軍のシールズと接した結果として、米国の特殊部隊はたいしたことない、と評価していますが、デルタはひょっとすると異なるかもしれません。
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