弁理士の日々

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1999年能登半島沖不審船事件

2016-10-09 12:32:13 | 歴史・社会
伊藤祐靖著「国のために死ねるか 自衛隊「特殊部隊」創設者の思想と行動 (文春新書)
巻末の著者紹介には以下のように書かれています。
『1964年東京都出身。日本体育大学から海上自衛隊へ。・・「みょうこう」航海長在任中の1999年に能登半島沖不審船事件を体験。これをきっかけに自衛隊初の特殊部隊である海上自衛隊の「決別警備隊」の創設に関わる。42歳の時、2等海佐で退官。以後、ミンダナオ島に拠点を移し、日本を含む各国警察、軍隊に指導を行う。・・・』

『能登半島沖不審船事件は、私の人生の転機であっただけでなく、戦後日本の軍事・防衛にも大きなインパクトを与えた出来事である。なのに、一般的には、事件が起きたことすらほとんど知られていない。』(伊藤著)

1999年に起きた能登半島沖不審船事件、確かに事件直後の報道の記憶は全くありません。一方私は、事件直後の文藝春秋の記事でこの事件のことを知っており、強烈な印象を受けていました。記事のスクラップが取ってあります。文春記事を追ってみましょう。

『自衛隊員は「玉砕」寸前だった
初めての海上警備行動に踏み込んだ深夜の海で何が起きようとしていたのか』麻生幾
(文藝春秋 1999年5月号146~152ページ)

1999年3月19日。北朝鮮から2隻の工作船が発進するとの情報が韓国と米国から日本にもたらされた。
3月23日早朝。海上自衛隊のP-3C対潜哨戒機が、佐渡島西沖で工作船を捉えた。護衛艦「みょうこう」に佐渡島沖に向かうように命令が出される。
さらにその2時間半後、能登半島東沖に、P-3Cがもう1隻の不審船を見つけた。護衛艦「はるな」にも出動命令が出される。
「はるな」は、まず能登半島沖で「第2大和丸」を発見、次に佐渡島沖で「第1大西丸」を発見した。能登半島沖では「みょうこう」が第2大和丸の追跡を開始、佐渡島沖では「はるな」が第1大西丸の追跡を開始した。
午後8時、海上保安庁は巡視船に対して武器使用の命令が下った。巡視船「ちくぜん」は、能登半島沖を逃げる第2大和丸に威嚇射撃を行ったが、工作船の速力(35ノットを超える)は巡視船の速力をはるかに凌駕し、逃げられる。能登半島沖でも、巡視船「さど」は第1大西丸から引き離される。
一方、海自の「みょうこう」と「はるな」は、工作船の速度に負けず、それぞれの工作船を追跡し続けていた。

午後11時47分、「はるな」のレーダーが、第1大西丸が停船したことを確認したと連絡が入る。
『「今から立ち入り検査ができる。対応可能は護衛艦だけだな!
防衛庁長官が言った。
首相官邸も決断した。日付が変わった3月24日午前零時30分。防衛庁長官に対し、運輸大臣からの電話によって、海上警備行動の発令を依頼。・・・運命の時間。午前零時50分。防衛庁長官は、居並ぶ自衛隊幹部の前で、宣言した。
「海上警備行動を発令する」』
このあと、「はるな」と「みょうこう」はそれぞれ工作船に停戦命令を発し、停戦命令に従わない工作船に対して127ミリ速射砲での警告射撃を繰り返す。
しかし、3時20分、第2大和丸が日本の防衛識別圏を越境、6時6分に第1大西丸が日本の防衛識別圏を通過したため、作戦行動が中止された。

『海上警備行動を命ずる防衛庁長官の言葉に、横に座っていた海上自衛隊の幕僚長の顔が大きく引きつったのを、多くの関係者は目撃している。
幕僚長の心中は、海上自衛隊の幹部たちは全員わかっていた。もし工作船に立ち入り検査を行う場面があったら最悪の事態が起きるだろう。大勢の隊員たちが殺され、内閣も吹っ飛ぶだろう・・・
「立ち入り検査は、甲板上に備えつけられた内火艇(小型ボート)を降ろし、隊員を乗せて近づくしかない。選抜されるのは砲雷科の隊員で、六四式自動小銃を携行することになろう。だが、海上自衛隊では、外洋での立ち入り検査訓練を一度もやっていない。荒れる海に浮かぶ内火艇に銃を持って乗り込むだけでも大変。恐らく、二、三名は銃を海に落とすだろう。そして、防弾チョッキもなく工作船に近づいた時、隠していた無反動砲や機関砲で撃たれれば、隊員たちは有効な反撃はできない。間違いなく、全員玉砕だ」(海上自衛隊OB)
海上警備行動は、日本の現行法を考えれば、極めてスムーズにいったと言えよう。ただ、実際に運用するためには、余りにも欠陥が多い。多くの隊員たちの生命が奪われることは必至--それが海上警備行動であることを知るべきだ。』

「海上警備行動」とは何でしょうか。ウィキペディアには以下のように記述されています。
『強力な武器を所持していると見られる艦船・不審船が現れる等、海上保安庁の対応能力を超えていると判断されたときに、防衛大臣の命令により発令される海上における治安維持のための行動である。
自衛隊法82条に規定されたものであり、自衛隊法93条に権限についての規定が定められている。海上における治安出動に相当し、警察官職務執行法・海上保安庁法が準用される。発令に当たっては、閣議を経て、内閣総理大臣による承認が必要である。』
海上警備行動発令後にどのような行動がなされるのか、上記の記述からは明らかではありません。能登半島沖事件の経過によると、少なくとも不審船に乗り込んでの臨検はその一つであるようです。

しかし自衛隊の得意技は、敵対する相手方に対し、相手よりも優勢な武器を用いて、相手を殲滅することによって無力化することを目的として構築されています。強力な武器で武装した不審船に対し、小火器のみを携行して乗り込んだ上で臨検するなど、(少なくとも当時の)海上自衛隊が得意とする行動では決してありません。
このとき、もしも本当に臨検隊が不審船に接近し、さらに乗り込もうとしたら、多くの隊員が戦死し、あるいは不審船の自爆によって全員が戦死した可能性があります。このような重大な事態について、日本人は知らなすぎる気がします。

安保関連法案が昨年改正され、「駆け付け警護」が可能となりました。現在、南スーダンでPKO活動を行っている自衛隊において、次期の派遣部隊から駆け付け警護を任務に加えるよう、検討されています。
南スーダンに派遣される部隊は施設部隊、即ち工兵隊です。工兵隊員が陸上戦闘を担うのには無理があるのではないか、と私は思います。
しかし、能登半島沖不審船事件で海上警備行動が発令されたときは、対人戦闘を任務とせず、訓練も受けていない隊員が矢面に立たされようとしたのです。次回記述する伊藤祐靖さんの著書によると、このときの臨検隊員の中には、手旗要員も含まれていました。訓練を受け重武装した工作船の工作員に対し、手旗要員が訓練も受けずに小銃と拳銃で立ち向かおうとしたのです。

日本の自衛隊では、軍人が勝手に暴発することのないよう、シビリアンコントロールが徹底しています。しかしこのときの実態を見ると、シビリアンである防衛庁長官と官邸が突っ走り、軍事専門家である幕僚長は、「無理だ」と意見具申するどころか、顔を引きつらせることしかできませんでした。これでは間違ったシビリアンコントロールであると言わざるを得ません。

当時の政権は、よくもこのような無謀な作戦を発令したものです。また、マスコミもこのことを大きな問題としては報じませんでした。
当時の政権担当者を挙げておきます。
 内閣総理大臣 小渕恵三
 防衛庁長官 野呂田芳成
 運輸大臣 川崎二郎
 内閣官房長官 野中広務
 外務大臣 高村正彦

文藝春秋の上記記事によると、第1大西丸が停船したのは海上警備行動が発令される前です。海上警備行動発令後にどちらかの工作船が停止し、それに対応して臨検隊が実際に出動した、という内容は文春には記述されていません。
しかし、伊藤祐靖さんの著書によると、海上警備行動発令後に、第2大和丸が停船し、臨検隊が編成されて出撃直前まで行ったとあります。出撃直前に第2大和丸が再度動き出したため、臨検が実行されることはありませんでしたが。

それでは、第2大和丸を追っていた「みょうこう」で実際にはどのようなことが起こっていたのか。次回の記事で。
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