たしか、去年の中央公論の3月号だったと思うのですが、「新書大賞ベスト30」という特集があり、そこで推奨された新書の大部分を私が読んでいないことが判りました。
その中の1冊に以下の本があり、いつか読もうと購入していました。
1931年の満州事変勃発から、満州国成立、国際連盟脱退、そして盧溝橋事件から日中戦争が拡大する1940年までを対象にした歴史書です。
新書ですから、記載量には限りがあります。その制約の中で、「何が起こったか」を簡明に述べるよりも、「その深層に何があったか」を解明しようとする書です。従って、「この時期に何が起こっていたか」を詳しく知らずに読むと消化不良を起こしそうです。
かくいう私も、今年の春に購入した時点ではなかなか読み始める気力が沸きませんでした。ところがその後、「広田弘毅―「悲劇の宰相」の実像 (中公新書)
」「外交官の一生 (中公文庫BIBLIO20世紀)
」「外交五十年 (中公文庫BIBLIO)
」などを読むチャンスがあり、この時期に起きた事柄を頭の中で整理することができました。その結果、上記加藤陽子氏の著書をスムーズに読むことが可能になりました。
しかし、読み終わってその内容をまとめようとすると、やはり内容が実に多岐にわたっているのに対し、新書という制限内の著述でしかなく、私の頭をきちんと整理するのが極めて困難であることを実感します。
満州事変前後の国際情勢を語る際に、「日本が有していた満蒙における特殊権益」という言い方がよくされます。
加藤氏の著書では、「特殊権益(日本の特殊な権利、日本の特殊な利益)」というものが、決して二国間あるいは国際的に認知されたものではなく、日本単独の独りよがりであったことを本の中で明かしていきます。
しかし当時の国民は、陸軍による宣伝活動が功を奏し、「日本は満蒙に特殊権益を有しているのだ」と信じて疑わなくなります。そのような日本の権益を侵害する張作霖、張学良、中国人民はけしからん連中である、ということになります。
《満州事変後のリットン調査団から国際連盟脱退まで》
満州事変後、国際連盟はいわゆる「リットン調査団」を派遣します。
団長であるイギリスのリットン伯爵自身は、紛れもなく中国に同情的でありましたが、リットン報告書は日本に好意的に書かれたものでした。アメリカ代表は「日本側は報告書の調子に満足するだろう」と述べていますし、日本の専門家のメンバーも「内容は全体的には日本に対して非常に好意的である」と評価します。
しかし日本はこの報告書に満足しません。主に、日本の特殊権益が認められなかったところが大きかったようです。
当時の外相である内田康哉は、満鉄総裁時代から関東軍の行動に協力的であり、はやくから満州国独立・満州国承認論を論じていました。32年6月14日、衆議院本会議で、政友・民政共同提案の満州国承認決議は全会一致で可決されます。
国際連盟で、日本代表の松岡洋右は妥結に向け努力しますが、それを内田外相が葬ってしまいます。内田は国際連盟を脱退せずに済ます自信があったようです。
しかし国際連盟は、リットン報告書をベースとした和協案よりも厳しい内容の勧告案を採択します。
国際連盟脱退は、意外な展開に基づきます。
連盟規約16条では制裁について規定していますが、それは、15条の和解や勧告を無視して新しい戦争に訴えたときにだけ適用されると解釈されます。
関東軍は、「熱河作戦」を計画し、斉藤内閣はこれを諒承します。天皇も参謀総長の上奏に許可を与えます。この時点でまだ国連の勧告は決まっていません。しかし2月8日、連名の手続が勧告案へ移行したことが伝えられます。斉藤首相と天皇は、熱河作戦が「新しい戦争」と解釈される恐れがあると気付き、うろたえます。
熱河作戦は撤回できない。16条適用もあるうるかも知れない。ならば速やかに(連盟を)脱退すべきだとの方針を内閣は取りました。
こうして、日本は国際連盟から脱退しました。決して、松岡洋右単独のプレーではなかったのです。
以下次号へ。
その中の1冊に以下の本があり、いつか読もうと購入していました。
![]() | 満州事変から日中戦争へ―シリーズ日本近現代史〈5〉 (岩波新書)加藤 陽子岩波書店このアイテムの詳細を見る |
1931年の満州事変勃発から、満州国成立、国際連盟脱退、そして盧溝橋事件から日中戦争が拡大する1940年までを対象にした歴史書です。
新書ですから、記載量には限りがあります。その制約の中で、「何が起こったか」を簡明に述べるよりも、「その深層に何があったか」を解明しようとする書です。従って、「この時期に何が起こっていたか」を詳しく知らずに読むと消化不良を起こしそうです。
かくいう私も、今年の春に購入した時点ではなかなか読み始める気力が沸きませんでした。ところがその後、「広田弘毅―「悲劇の宰相」の実像 (中公新書)
しかし、読み終わってその内容をまとめようとすると、やはり内容が実に多岐にわたっているのに対し、新書という制限内の著述でしかなく、私の頭をきちんと整理するのが極めて困難であることを実感します。
満州事変前後の国際情勢を語る際に、「日本が有していた満蒙における特殊権益」という言い方がよくされます。
加藤氏の著書では、「特殊権益(日本の特殊な権利、日本の特殊な利益)」というものが、決して二国間あるいは国際的に認知されたものではなく、日本単独の独りよがりであったことを本の中で明かしていきます。
しかし当時の国民は、陸軍による宣伝活動が功を奏し、「日本は満蒙に特殊権益を有しているのだ」と信じて疑わなくなります。そのような日本の権益を侵害する張作霖、張学良、中国人民はけしからん連中である、ということになります。
《満州事変後のリットン調査団から国際連盟脱退まで》
満州事変後、国際連盟はいわゆる「リットン調査団」を派遣します。
団長であるイギリスのリットン伯爵自身は、紛れもなく中国に同情的でありましたが、リットン報告書は日本に好意的に書かれたものでした。アメリカ代表は「日本側は報告書の調子に満足するだろう」と述べていますし、日本の専門家のメンバーも「内容は全体的には日本に対して非常に好意的である」と評価します。
しかし日本はこの報告書に満足しません。主に、日本の特殊権益が認められなかったところが大きかったようです。
当時の外相である内田康哉は、満鉄総裁時代から関東軍の行動に協力的であり、はやくから満州国独立・満州国承認論を論じていました。32年6月14日、衆議院本会議で、政友・民政共同提案の満州国承認決議は全会一致で可決されます。
国際連盟で、日本代表の松岡洋右は妥結に向け努力しますが、それを内田外相が葬ってしまいます。内田は国際連盟を脱退せずに済ます自信があったようです。
しかし国際連盟は、リットン報告書をベースとした和協案よりも厳しい内容の勧告案を採択します。
国際連盟脱退は、意外な展開に基づきます。
連盟規約16条では制裁について規定していますが、それは、15条の和解や勧告を無視して新しい戦争に訴えたときにだけ適用されると解釈されます。
関東軍は、「熱河作戦」を計画し、斉藤内閣はこれを諒承します。天皇も参謀総長の上奏に許可を与えます。この時点でまだ国連の勧告は決まっていません。しかし2月8日、連名の手続が勧告案へ移行したことが伝えられます。斉藤首相と天皇は、熱河作戦が「新しい戦争」と解釈される恐れがあると気付き、うろたえます。
熱河作戦は撤回できない。16条適用もあるうるかも知れない。ならば速やかに(連盟を)脱退すべきだとの方針を内閣は取りました。
こうして、日本は国際連盟から脱退しました。決して、松岡洋右単独のプレーではなかったのです。
以下次号へ。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます