弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

幣原喜重郎「外交五十年」

2008-10-21 21:15:56 | 歴史・社会
外交五十年 改版 (中公文庫 B 1-48 BIBLIO20世紀)
幣原 喜重郎
中央公論新社

このアイテムの詳細を見る

月刊誌「現代」10月号で、佐藤優氏が「竹島、遙かなり」という記事を記載しており、その中で「外交交渉の基本は、能力と誠実さと腹である」と書かれています。
幣原喜重郎「外交五十年」を読むと、幣原氏は能力と誠実さと腹を兼ね備えた外交官であり、どうもその資質は「天然」に具備していたものであるとの印象を受けました。

幣原喜重郎氏は「幣原外交」の名で有名です。石射猪太郎著「外交官の一生」で紹介したように、幣原氏は1924年から1927年と1929-1931年の2度にわたって外務大臣を務めます。
この頃の中国は乱脈で、軍閥が入り乱れ、国民党政府が蒋介石将軍を総司令として北伐軍を起こし、その過程で南京領事館に避難中の日本居留官民が北伐軍に大略奪を受けるという事件も起きます。石射氏は、「こうした中国の乱脈に対してわが国論が湧き、対華干渉、武力発動が唱えられ、その急先鋒が政友会と右翼であった。これに対して幣原外相の固くとった政策が、絶対不干渉政策であった。」とし、幣原外交の特徴について述べます。

この幣原外交、現在の視点で見ればまさに正しい外交姿勢なのですが、当時の日本人にとっては軟弱外交と映り、結局は日本の対華強硬論に火を付ける上で、火に油を注ぐ役割を果たしただけではないか、という印象を私は持っていました。

特に、1927年2月、蒋介石の北伐軍が南京に乱入し、南京の日本大使館に避難した日本人居留民が徹底した略奪暴行を受けた際にも、幣原外交の無抵抗主義が原因であると激しく非難されました。


今回、幣原氏執筆の「外交五十年」を読んでみると、幣原氏の姿勢というのは一生の間常に終始一貫しているようです。本人としては、気負って「幣原外交」を演出したような気配は全くありません。また、自ら進んで国政に参画しようとした気配もありません。外務大臣就任を要請されたときにはそれを受け、大臣就任中は自分が信ずるままに任務を遂行し、その役を外れれば淡々と浪人生活を送る、といった人生だったようです。

幣原氏は、例えばアメリカ大使を務めていた頃、在ワシントン日本大使館の書記官室に現れては、書記官たちをからかうのを日課にしていました(石射氏著作)。そのような幣原氏の「腹」とは何か、という点ですが、特に腹が据わっているということではなく、自分が受けるかもしれない危害に無頓着であった、という方が当たっているかもしれません。
幣原外交が「軟弱外交」として日本国民からやり玉に挙げられても、自分の身を案ずることに無頓着で、別に勇気を振り絞ることなく自分の思い通りに政務をこなしていたのではないかと。


幣原氏の著書「外交五十年」は、読売新聞社の希望に応じて口述したものを紙上に連載したのがはじめだそうで、そのためか、話があっちへ飛びこっちへ飛び、理解しづらい構成となっています。ですから、ある程度幣原外交時代の歴史を頭に入れた上で、その歴史の細部を肉付けする意味でこの著書を用いるのが好適でしょう。


幣原氏が1919年に駐米大使としてワシントンに着いた頃、カリフォルニア州で排日土地法が問題になり、とうとう州議会で可決してしまいます。この頃のアメリカにおける日本からの移民に対する差別待遇が、日本人のアメリカ嫌いを形成する大きな要因となりました。その意味では後に日米戦争の起因のひとつです。

幣原氏が大使館参事官としてワシントンにいた頃、1912年にパナマ運河が開通し、アメリカはイギリス船を含め外国船に通行税をかけることにしました。イギリスは米英間の条約違反であると抗議します。しかし米国議会はこの法案を可決してしまいます。
当時の在米イギリス大使はブライス氏です。ある日、幣原氏はブライス氏を訪ねます。幣原氏はパナマ運河問題についてブライス氏に「抗議を続けられるでしょう」と訊くと、「いいえ、もう抗議は一切しません」との答えです。幣原氏が突っ込むと、ブライス氏は昂然として、「どんな場合でも、イギリスはアメリカと戦争をしないという国是になっている。抗議を続ければそれは結局戦争にまで発展するほかない。戦争をする腹がなくて、抗議を続けても意味がない。」と答えます。
逆にブライス氏がカリフォルニアの排日問題に転じます。幣原氏が「抗議を続けます」と答えるとブライス氏は、「一体あなたはアメリカと戦争する覚悟があるのですか。もし覚悟があるなら、それは大変な間違いです。これだけの問題でアメリカと戦争をして、日本の存亡興廃をかけるような問題じゃないでしょう。」とし、こう付け加えます。「アメリカ人の歴史を見ると、外国に対して相当不正と思われるような行為をおかした例はあります。しかしその不正は、外国からの抗議とか請求とかによらず、アメリカ人自身の発意でそれを矯正しております。これはアメリカの歴史が証明するところです。われわれは黙ってその時期の来るのを待つべきです。加州の問題についても、あなた方が私と同じような立場をとられることを、私はあなたに忠告します。」

アメリカの排日問題が、日本人のアメリカ嫌いを助長し、対米開戦にまで到達してしまったのですが、日本にイギリスの智恵があったらと惜しまれるところです。

またブライス氏が予測したとおり、1931年頃、アメリカは排日法を撤廃する気運になりました。ところがその後まもなく満州事変が勃発して日本の評判が再び険悪となったので、排日立法撤廃の発案は立ち消えになってしまいました。
この点からも、「満州事変がなければ、太平洋戦争には至らなかったのでは」という繋がりを感じます。

ワシントン軍縮会議で、幣原氏は加藤友三郎、徳川家達とともに全権を務めました。この会議で、アメリカに中立の立場をとらせ、また中国からの妨害を排除した背景で、幣原氏のした活動がこの著書に描かれています。

長くなったので以下は次回に。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« Windowsを2000からXPへ | トップ | 幣原喜重郎「外交五十年」(2) »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

歴史・社会」カテゴリの最新記事