弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

鹿児島市~西郷遺跡巡り

2014-10-08 19:54:02 | 趣味・読書
《21日(日)指宿→鹿児島(城山)》
指宿の宿からレンタカーで走り、まずはJR日本最南端の駅「西大山駅」から開聞岳を眺めましたが、残念ながらもやの彼方にうっすらとした見えませんでした。
 
JR日本最南端の駅「西大山駅」北緯31度11分

昼食はそうめん流しです。
唐船峡そうめん流し鱒乃屋という店でした。私は、そうめん流しといったら、傾斜し竹割り樋を流れ落ちる途中ですくい取る方法しか知りませんでした。「歩留りはどのくらいなんだろう」とつぶやいたところ、「回転式だ」と聞いてびっくりしてしまいました。
 
ドーナツ状の水路に常に水が流れており、そこにそうめんを入れ、反時計回りに回転しているそうめんを箸ですくい取る、という方法です。私は左利きですが、手のひらを裏返して箸ですくい取りました。左利き用の逆回転台もあるようです。

今夜の宿舎は鹿児島市内城山観光ホテルです。早い時間に到着し、各自が自由に行動することとなりました。私は一人で、城山周辺の西郷遺跡を回ることにしました。しかしすごい雨です。ホテルでもらった案内図に従ってまわります。

《鹿児島 西郷遺跡》
ホテルから最初の遺跡である西郷洞窟に向かいます。雨にけむる道路もなかなか絵になります。
 
城山観光ホテルから西郷洞窟へ向かう

石仏十三体
 
『弘法大師の徳を慕う鹿児島市内の観音講の人々が、四国88カ所巡礼になぞらえ、大師の尊像88体を建立しました。城山には、昭和3年につくられた88体の石仏のうち、13体が安置されています。』
安置された像の数は13を超えています。一段高い台に安置された像が13体あったので、これが大師尊像でしょう。この写真も幽玄郷です。

曲がりくねった車道の途中、道ばたに洞窟はありました。このあたり一帯は、岩崎谷と呼ばれているようです。
《西郷洞窟》
 

  
西南戦争 最後の司令部
『1877年(明治10)9月24日 死を決した西郷は、夜明けを待って、5日間過ごしたこの洞窟を出ました。』(説明文)
柵があったので洞窟の深さは確認できませんでしたが、せいぜい深さ1m程度のようでした。この洞窟に何人が過ごしていたのでしょうか。

さらに曲がりくねった車道を下り、平地に達したその先に、西郷隆盛終焉の地はありました。
西郷隆盛終焉の地「晋どん、もうここらでよか」
 
『2発の銃弾が西郷隆盛の腰を大腿部を打ち抜きました。城山洞窟を出てわずか300m、650歩でついに途は閉ざされたのです。「晋どん、もうここらでよか」東を向き、皇居を伏して拝む西郷に、別府晋介の介錯の太刀が振り下ろされました。1877年(明治10)9月24日のことです。』(説明文)

「敬天愛人」トンネル
 
西郷隆盛が最も好んで使った言葉「敬天愛人」(意味は天を敬い、人を愛す)の文字が、JR日豊本線の城山トンネル鹿児島駅側入口に刻まれています。これとは逆に鹿児島中央駅側入口には大久保利通の政治信条「為政清明」 (意味は政治をするには潔白で隠し事があってはいけない)の文字が刻まれているのだそうです。

《私学校跡》
隆盛終焉の地から国道10号線に出ると、そこが私学校跡です。敷地内は、現在は鹿児島医療センターになっているようです。国道に面した石垣と、私学校の門のみが当時を忍ばせるようです。
 

  
私学校については、ずいぶん前に司馬遼太郎著「翔ぶがごとく」を読んだ記憶がかすかに残っている程度です。ホテルの説明書きでは「政界を退いた西郷隆盛と共に帰郷した薩摩藩士たちを指導統率するために、明治7年、鶴丸城の馬小屋跡に私学校が創設されました。」とあります。私学校生徒が鹿児島の鎮台の弾薬庫襲撃を行い、これがきっかけとなり西南戦争が起こった、ということで歴史上は有名であるようです。

石垣の上に「明治十年戦役弾痕」とあります。石垣の、どの穴が弾痕でどの穴が天然の穴なのか区別がつきません。ホテルの説明書きでは「私学校の石垣には西南戦争で政府軍が浴びせた銃砲弾の弾痕が今もなお残っています。」とあります。
 
石垣に残る銃弾の跡

私学校跡からさら国道10号とお堀の間を進むと、鶴丸城の大手門(楼門)に至ります。大手門から中に入ると、現在は鹿児島県歴史資料センター黎明館が建っています。
  
鶴丸城跡入口            黎明館

さらに進むと西郷隆盛像です。
  
西郷隆盛銅像

これで、西郷遺跡巡りは終了しました。中央公園を経て、鹿児島市役所方面に歩いていると、前方に銅像が見えてきました。小松帯刀像です。
 
小松帯刀(こまつたてわき)像
「この像は京都二条城会議で真っ先に筆をとって署名し、将軍徳川慶喜に大政奉還を勧告、王政復古を実現させた小松帯刀の功績をたたえる像である。時に小松33歳、慶応3年(1867)10月13日であった。」(説明文)

鹿児島市役所の本館に至りました。立派で趣のある建物です。
 
鹿児島市役所本館

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