弁理士の日々

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藤原てい「流れる星は生きている」

2009-07-12 21:26:48 | 歴史・社会
流れる星は生きている (中公文庫BIBLIO20世紀)
藤原 てい
中央公論新社

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このような壮絶なドキュメントを読むのは久方ぶりです。
「昭和20年8月9日、ソ連参戦の夜、満州新京の観象台(気象台)官舎--。夫と引き裂かれた妻と愛児3人の、言語に絶する脱出行がここから始まった。敗戦下の悲運に耐えて生き抜いた一人の女性の、苦難と愛情の厳粛な記録。戦後空前の大ベストセラーとなり、夫・新田次郎氏に作家として立つことを決心させた、壮絶なノンフィクション。(文庫カバーより)」

昭和20年8月、藤原ていさんは、満州新京の観象台(気象台)に勤務する夫(後の新田次郎氏)とともに、官舎に住んでいました。6歳の正広ちゃん、3歳の正彦ちゃん、生後1ヶ月の咲子ちゃんと一緒です。

ソ連軍が突如日本に宣戦を布告し、ソ満国境から満州になだれ込んだのが8月8日です。

8月9日の夜10時半頃、緊急の知らせが官舎に入ります。その知らせで役所にでかけた夫が帰ってきます。
1時半までに新京駅に集合し、新京から逃げるというのです。汽車の割り当てが決まっているので、あと30分で出発しなければならない。
関東軍の家族がすでに移動を始めています。政府の家族もこれについで同じ行動を取るように上部からの命令です。
大急ぎで準備をして出発します。新京駅まで4キロありますが、正彦ちゃんを背負ったていさんは1キロも歩かないうちにへばってしまいます。咲子ちゃんを産んで1ヶ月経つか経たないていさんには無理だったのです。
やっとの思いで新京駅に着くと、ていさんは土の上にぐったりくずれます。

翌日の朝、藤原さん達は無蓋貨車に乗せられ、汽車は出発します。汽車は鴨緑江の鉄橋を渡り、北朝鮮に入ります。ここで、この列車の最終点は、北朝鮮内の宣川であることを知らされます。

宣川で滞在中、藤原さん達観象台の団体は、このまま宣川に留まるか、南下して仁川に行くか、紛糾します。ていさんは南下を強く希望していました。そして8月24日頃、皆が南下しようと決めて切符を手配に行くと、「きょうから汽車は平壌以南へは行かない」ことを知らされました。38度線を境として交通が遮断されたのです。

団体は、宣川の町外れにある一軒家で生活するように命令されます。
10月25日、突然、18歳以上40歳以下(さらに45歳以下)の日本人男性が、収容所へ送られることになります。藤原さんの夫も含まれます。
こうして団体は、女性、老人、子どものみ残され、この後、厳寒の北朝鮮のあばら屋で冬を越すことになるのです。

12月の寒い夜
「私は持っているすべての衣類を子供に着せて、1枚の布団の上に3人並べて寝かせ、その上に1枚の毛布を掛けた。それでも子供たちは足が冷えるので寝られないらしく、咲子と正彦はかわるがわる泣くのであった。私は6本の足を全身で温めてやった。足を私の胸やお腹に抱いてじっと身体を丸くしていると少しずつ子供の足が温まってくる。子供たちがやがて静かな寝息をたてる。しかし私の背中は氷のように冷え切って背骨が寒さにいたい。子供が眠ると私は眠れない。温まった足をそのまま動かさないようにじっとして朝の来るのを待っていた。こんな夜が続いた。私は昼間ガラス戸を通して太陽が暖かく差し込む頃を見計らって、1時間か2時間縁側に出て仮眠した。」

春になります。
食事は僅かな配給に頼っており、家族4人とも飢えています。
ある日、おやつに芋を茹で、3人で分配して食べます。正彦ちゃんは餓鬼のように食べてしまって、いつものように母親の分をねだって困らせます。ついに負けてていさんの残っている分を正彦ちゃんに与えてしまいます。
「『お母さん、僕のをお母さんにあげるよ、お母さんお腹がすいておっぱいが出ないでしょう』
今までじっと見ていた正広が突然こういって、まだ半分食べ残して歯の跡が付いているお芋を私に差し出した。私は正広が本気で私にそういってくれるのをその目ではっきりと受け取ると、胸をついて出る悲しさにわっと声をあげて泣き伏してしまった。
7歳になったばかりのこの子が自分が飢えていながらも母の身を案じてくれるせつなさとうれしさに私は声を立てて泣いた。」

5月、その正広ちゃんが熱を出します。のどの奥からぜいぜいという音が聞こえ、鼻から血が出ました。「ジフテリアに違いない」
日本人の医師に連絡しますが、行ってもどうしようもないと来てくれません。ジフテリアなら血清に千円かかりますが、そんなお金はありません。
ていさんは、金策を仲間の東田さん(女性)に任せ、正広ちゃんを背負って町で一番大きな病院へ急ぎました。ジフテリアと診断されましたが血清がありません。「救世病院へ行けばあるでしょう。」
救世病院は教会がやっている病院でした。すぐ血清を打とうとする医師に、お金を持っていないことを告げますが、医師はすべてを了解して血清を打ってくれます。
東田さんが遅れて顔を出しました。千円は集まりませんでしたが、それでも仲間から300円を集めてきました。それと、藤原さんの懐中時計(ロンジン)があります。ロンジンは、町の時計屋に売ろうとしたら250円といわれたのでした。
藤原さんがその全てを正直に話すと、医師はロンジンを手にとって「私がこの時計を千円で戴きます」
こうして正広ちゃんは助かったのです。

以下次号
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1 コメント

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藤原ていさんご逝去 (snaito)
2016-11-20 13:14:07
最近、「藤原てい」のキーワードで検索してこのサイトに来られる方が多かったので、調べてみました。藤原ていさんがお亡くなりになっていました。
http://www.asahi.com/articles/ASJCL55P5JCLUCLV00L.html
「壮絶な引き揚げ体験を描いたベストセラー小説「流れる星は生きている」を書いた作家で、山岳小説で知られる故新田次郎さんの妻だった藤原てい(ふじわら・てい)さんが15日、老衰のため死去した。98歳だった。」
ご冥福をお祈り申し上げます。
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