弁理士の日々

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日米の企業文化比較

2016-10-15 10:53:32 | 歴史・社会
10月13日の新聞記事(日経か朝日)だったのですが、一つのコラムに目が留まりました。ブログ記事にするつもりだったのですが、うっかりして翌日の古紙回収に出してしまい、新聞を見ることができません。思い出しながら書くことにします。

そのコラムというのは、アメリカのシリコンバレーやシアトルの企業を訪問したときの話でした。
それら米国の都市にある企業では、社員の執務場所が職場に限定されません。自宅でも自由に仕事することが許されています。
それに対して、コラム執筆者が知っている日本の企業では、執務場所が職場に限定されています。職場以外での執務を許容すると、情報漏洩の恐れがある、というのが主な理由だったと思います。

日本での話を米国企業の人に話すと、彼らはびっくりします。
「情報漏洩を回避する方法はいくらでもある。そもそも、執務場所を職場に限定するようなことをしたら、社員が創造性を十分に発揮できないではないか。」というのが米国人の意見です。

日米のこの差は、一体なぜ起きるのか。それを考えていて、一つのアイデアに至りました。

コラム執筆者が比較の対象としたアメリカの企業は、おそらく才能に溢れた人たちが中心をしめる企業です。
そのような企業では、社員がその才能をどれだけ発揮できるかが最大のポイントであり、才能を発揮するために必要であれば、執務場所についても自由を保証し、そのときに必要となる情報漏洩防止の策も惜しみなく投資することでしょう。

一方、コラム執筆者が比較の対象とした日本の企業は、おそらく凡人たちが中心をしめる企業です。
凡人たちが中心ですから、自由な執務場所を保証してアイデアを発揮してもらうことなどあまり期待していません。凡人の中には注意散漫な人、悪意をもった人の混入率も高いでしょうから、情報漏洩の恐れの方が大きな心配となるでしょう。それがために、安全策として執務場所を職場のみに限定しているものと想像されます。

ところで、職業人全体に占める、才能豊かな人の比率と凡人の比率が、アメリカと日本でさほど異なるようには思えません。アメリカにも凡人は大勢いるし、日本にも才能豊かな人は一定の比率で存在するはずです。上記コラムの比較において、なぜアメリカは才能豊かな人たちの企業、日本は凡人中心の企業になったのでしょうか。

われわれが「アメリカを代表する企業」として着目する企業が、おそらく才能豊かな人たちが中心となった企業なのでしょう。このような企業がイノベーションを生み出し、アメリカ、そして世界を牽引する業績を生み出すのでしょう。
それでは、アメリカに大勢いるはずの凡人はどうしているのか。今まで、われわれ日本人からはよく見えませんでした。思うに、今回のアメリカ大統領選挙で、アメリカの凡人が見えてきたような気がします。あのトランプが共和党大統領候補にまで上り詰めたのは、白人の中下流の人たちが支持しているためといいます。そうか。アメリカの凡人がここに出現したか。私はそう思いました。

一方、われわれが「日本の一般的な企業」として目にしている企業は、凡人が中心となっている企業です。凡人でも勤まるような構造となっています。日本では、凡人といってもそのボトムが一定レベルを確保できているので、凡人中心であってもそれなりに機能するのでしょう。
それでは、日本の才能溢れる人たちはどうしているのでしょうか。
恐らく、凡人中心の企業の中で、凡人たちの中に埋没して日々を過ごしているのでしょう。あるいは、才能溢れる人たちは学業も優秀でしょうから、最初から管理職候補として、ゼネラリストコースを歩いているかもしれません。いずれにしろ、創造性を発揮することは難しいですね。

さて、新聞で読んだ一つのコラムから想像をたくましくしましたが、真実の一端をついているでしょうか。
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