東郷和彦元外務省欧亜局長(現米プリンストン大学客員研究員)については、佐藤優氏の控訴審の証人尋問の様子(被告側、検察側)、それに靖国に関する月刊現代の記事(靖国再編試案、A級戦犯合祀問題)について以前書きました。
東郷和彦氏の祖父は東郷茂徳氏であり、太平洋戦争開戦時の外相と終戦時の外相を務めています。東京裁判ではA級戦犯として懲役20年の判決を受け、獄中で病死しました。
東郷和彦氏は、月刊現代の靖国再編試案の中で、太平洋戦争開戦時のハルノートについて記載しています。
「『ハル・ノート』が届いた夜
母が繰り返し話して聞かせたのは、1941年12月、『ハル・ノート』が到着した日の夜の暗さでした。当時、東条内閣の外相だった祖父は日米開戦を回避するべく奔走していました。陸軍と中国からの撤兵をめぐって激しく議論を繰り広げる一方で、米国への和平工作として、甲案・乙案の交渉条件を出した。甲案は中国からの日本の撤退を含む長期的合意案で、甲案が成立しない場合の代替案として、日本の南部仏印からの撤退と、アメリカの石油の禁輸措置の中止を内容とする乙案を提示しました。
・・・
しかし、交渉の席に着くかと思われた米国は、甲案・乙案ともに蹴り、最後通牒とも言える『ハル・ノート』を日本に突きつけた。この日の夜、帰宅した祖父の落胆ぶりは傍らでみていて沈痛なものがあり、本当に暗い夜だったと母は何度も述べていました。」
日本大百科全書で「ハル・ノート」を引くと、
「太平洋戦争直前の日米交渉末期、アメリカ国務長官ハルC. Hullにより日本側に手交されたアメリカ側対案。1941年(昭和16)11月20日の日本の野村吉三郎大使による打開案に対する回答として26日(日本時間27日)提示された。内容は、日本の中国および仏領インドシナからの全面撤兵、重慶を首都とする国民党政府以外のいかなる政権をも認めないことなど、きわめて非妥協的な要求をもつ対日要求であり、この文書の提出によって、日米交渉は事実上終止符を打たれた。日本側はハル・ノートをアメリカの最後通告とみなし、12月1日の御前会議では、日米交渉の挫折を理由に対米英蘭開戦を決定した。」とあります。
日本政府は昭和16年11月当時、米国との間に困難な日米交渉を展開すると同時に、政府部内では、軍部を中心とする開戦派とそれに反対する和平派が激しくやりあっていましたが、ハル・ノートを受けて和平派は万事休す、政府の方針は一気に開戦に傾きました。
私の全体感では、
日中戦争の泥沼化から日独伊三国同盟を経て、日米開戦に向けて日本が坂道を転がりかけていた時勢の中で、昭和16年11月当時、転がり落ちようとしている石を和平派がなんとか食い止めていた。そこに到着したハル・ノートは、最後に残ったつっかい棒をいとも簡単にへし折り、石は谷底に向けて転がり落ちることになった、
と、そのように理解しています。
つまり、日米開戦の直接の引き金を引いたのはアメリカだと。
ところで、米国は日米開戦を望んでいなかったか、あるいは日本の対米開戦が寝耳に水だったか、というととんでもありません。
アメリカは昭和16年末の当時、日米開戦を決断していました。何らかのきっかけで日本に引き金を引かせ、それに応じて日米戦争を開始するつもりだったのです。ただ、開戦の時期としては、米国海軍が「あと数ヶ月は準備が必要」と主張したこともあり、昭和17年に入ってからの予定だったようです。ところが11月26日朝(アメリカ時間)、どこからか何らかの連絡が米国政府に入り、その結果、突然上記のハル・ノートを日本に突きつけることに決したようです。その連絡内容については未だに非公開情報とされています。
ハル・ノートの手交によって日本が対米開戦するだろうことを米国は予期していたはずで、ただし日本海軍航空部隊がハワイの真珠湾攻撃をかけてくるとまでは(おそらく)予想できなかったのでしょう。
いずれにしろ、以上のようないきさつを考慮すると、日米開戦時にたまたま外相だった東郷茂徳氏をA級戦犯として懲役20年の刑に処したのは??と言わざるを得ません。
ただし、今読んでいるパル判決書はまだ日米開戦時の論証まで読み進んでいないので、そこまで読んだらまたコメントすることとします。
たまたま吉田茂著「回想十年」(中公文庫)を読み返していたら、ハル・ノート関連記事がありました。
外務官僚だった吉田茂氏は、昭和11年当時、駐英大使でした。日本政府は日独防共協定を締結する肚を決め、在外大使の意見を徴することになりました。他の大使がすべて賛成した中で、吉田大使のみは断固反対を通します。その後、昭和14年に外務省を退き、終戦後まで浪々の身となります。
米国からハル・ノートが手交されたとき、東郷茂徳外相経由で吉田茂氏にハル・ノートが届けられます。吉田氏の義父である牧野伸顕伯に見せてもらいたいとの主旨でした。
ハル・ノートを見た吉田氏は、
「(米国の)実際の肚の中はともかく、外交文書の上では決して『最後通牒』(ultimatum)ではなかった筈だ。私はあらためて東郷外務大臣を訪ね、牧野伯の言葉を伝えると同時に、執拗にノートの右の主旨をいって、注意を喚起した。私は少々乱暴だと思ったが、東郷君に向かって『君はこのことが聞き入れられなかったら、外務大臣を辞めるべきだ。君が辞職すれば、閣議が停頓するばかりか、無分別な軍部も多少は反省するだろう。それで死んだって男子の本懐ではないか』とまでいったものだ。」
と書いています。
たとえ吉田茂氏が主張するような行動をそのときとって開戦が回避されたとしても、米国は少なくとも数ヶ月後には日米開戦する肚を決めていたのですから、単に開戦が数ヶ月延びたという結果しかもたらされなかったでしょう。
東郷和彦氏の祖父は東郷茂徳氏であり、太平洋戦争開戦時の外相と終戦時の外相を務めています。東京裁判ではA級戦犯として懲役20年の判決を受け、獄中で病死しました。
東郷和彦氏は、月刊現代の靖国再編試案の中で、太平洋戦争開戦時のハルノートについて記載しています。
「『ハル・ノート』が届いた夜
母が繰り返し話して聞かせたのは、1941年12月、『ハル・ノート』が到着した日の夜の暗さでした。当時、東条内閣の外相だった祖父は日米開戦を回避するべく奔走していました。陸軍と中国からの撤兵をめぐって激しく議論を繰り広げる一方で、米国への和平工作として、甲案・乙案の交渉条件を出した。甲案は中国からの日本の撤退を含む長期的合意案で、甲案が成立しない場合の代替案として、日本の南部仏印からの撤退と、アメリカの石油の禁輸措置の中止を内容とする乙案を提示しました。
・・・
しかし、交渉の席に着くかと思われた米国は、甲案・乙案ともに蹴り、最後通牒とも言える『ハル・ノート』を日本に突きつけた。この日の夜、帰宅した祖父の落胆ぶりは傍らでみていて沈痛なものがあり、本当に暗い夜だったと母は何度も述べていました。」
日本大百科全書で「ハル・ノート」を引くと、
「太平洋戦争直前の日米交渉末期、アメリカ国務長官ハルC. Hullにより日本側に手交されたアメリカ側対案。1941年(昭和16)11月20日の日本の野村吉三郎大使による打開案に対する回答として26日(日本時間27日)提示された。内容は、日本の中国および仏領インドシナからの全面撤兵、重慶を首都とする国民党政府以外のいかなる政権をも認めないことなど、きわめて非妥協的な要求をもつ対日要求であり、この文書の提出によって、日米交渉は事実上終止符を打たれた。日本側はハル・ノートをアメリカの最後通告とみなし、12月1日の御前会議では、日米交渉の挫折を理由に対米英蘭開戦を決定した。」とあります。
日本政府は昭和16年11月当時、米国との間に困難な日米交渉を展開すると同時に、政府部内では、軍部を中心とする開戦派とそれに反対する和平派が激しくやりあっていましたが、ハル・ノートを受けて和平派は万事休す、政府の方針は一気に開戦に傾きました。
私の全体感では、
日中戦争の泥沼化から日独伊三国同盟を経て、日米開戦に向けて日本が坂道を転がりかけていた時勢の中で、昭和16年11月当時、転がり落ちようとしている石を和平派がなんとか食い止めていた。そこに到着したハル・ノートは、最後に残ったつっかい棒をいとも簡単にへし折り、石は谷底に向けて転がり落ちることになった、
と、そのように理解しています。
つまり、日米開戦の直接の引き金を引いたのはアメリカだと。
ところで、米国は日米開戦を望んでいなかったか、あるいは日本の対米開戦が寝耳に水だったか、というととんでもありません。
アメリカは昭和16年末の当時、日米開戦を決断していました。何らかのきっかけで日本に引き金を引かせ、それに応じて日米戦争を開始するつもりだったのです。ただ、開戦の時期としては、米国海軍が「あと数ヶ月は準備が必要」と主張したこともあり、昭和17年に入ってからの予定だったようです。ところが11月26日朝(アメリカ時間)、どこからか何らかの連絡が米国政府に入り、その結果、突然上記のハル・ノートを日本に突きつけることに決したようです。その連絡内容については未だに非公開情報とされています。
ハル・ノートの手交によって日本が対米開戦するだろうことを米国は予期していたはずで、ただし日本海軍航空部隊がハワイの真珠湾攻撃をかけてくるとまでは(おそらく)予想できなかったのでしょう。
いずれにしろ、以上のようないきさつを考慮すると、日米開戦時にたまたま外相だった東郷茂徳氏をA級戦犯として懲役20年の刑に処したのは??と言わざるを得ません。
ただし、今読んでいるパル判決書はまだ日米開戦時の論証まで読み進んでいないので、そこまで読んだらまたコメントすることとします。
たまたま吉田茂著「回想十年」(中公文庫)を読み返していたら、ハル・ノート関連記事がありました。
外務官僚だった吉田茂氏は、昭和11年当時、駐英大使でした。日本政府は日独防共協定を締結する肚を決め、在外大使の意見を徴することになりました。他の大使がすべて賛成した中で、吉田大使のみは断固反対を通します。その後、昭和14年に外務省を退き、終戦後まで浪々の身となります。
米国からハル・ノートが手交されたとき、東郷茂徳外相経由で吉田茂氏にハル・ノートが届けられます。吉田氏の義父である牧野伸顕伯に見せてもらいたいとの主旨でした。
ハル・ノートを見た吉田氏は、
「(米国の)実際の肚の中はともかく、外交文書の上では決して『最後通牒』(ultimatum)ではなかった筈だ。私はあらためて東郷外務大臣を訪ね、牧野伯の言葉を伝えると同時に、執拗にノートの右の主旨をいって、注意を喚起した。私は少々乱暴だと思ったが、東郷君に向かって『君はこのことが聞き入れられなかったら、外務大臣を辞めるべきだ。君が辞職すれば、閣議が停頓するばかりか、無分別な軍部も多少は反省するだろう。それで死んだって男子の本懐ではないか』とまでいったものだ。」
と書いています。
たとえ吉田茂氏が主張するような行動をそのときとって開戦が回避されたとしても、米国は少なくとも数ヶ月後には日米開戦する肚を決めていたのですから、単に開戦が数ヶ月延びたという結果しかもたらされなかったでしょう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます