弁理士の日々

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伊勢崎賢治「武装解除」

2007-11-20 21:49:40 | 歴史・社会
伊勢崎賢治著「武装解除 紛争屋が見た世界」(講談社現代新書)
武装解除 -紛争屋が見た世界 (講談社現代新書)
伊勢崎 賢治
講談社

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「世界」11月号で伊勢崎氏のインタビュー記事を読んで啓発を受け、その中で紹介されていた上記の本を読んでみました。アフガニスタンでの武装解除については、11月6日11月8日に記事にしています。

伊勢崎氏のことは今回初めて知ったのですが、いやはや、こんな凄い人がいたなんて、知らなかったことはまったく迂闊でした。

伊勢崎賢治氏は、1957年東京生まれ、生活保護を受ける母子家庭で育ちます。
早稲田大学と大学院に進んで建築と都市計画を学びますが、都市計画には幻滅を感じます。
卒業に際し、たまたま大学事務室の掲示板に出ていたインド政府国費留学生募集に目が留まり、インド行きが決まります。ボンベイ大学では、スラム住民のフィールドワークを始めますが、語学のハンディを克服する意味で、彼はスラム住民側の住民組織に飛び込みます。その住民組織を側面から支援するNGOから月給を支給され、住民を組織する活動を行います。結局は4年滞在後、インド政府公安部からマークされて国外退去命令を受けます。

日本に帰国したが失業状態です。インド滞在期間中に今の奥さん(日本人)と結婚しており、1年間は奥さんの稼ぎだけで暮らしました。就職活動で日本のNGOに出かけますが、そこで給料の話を切り出したところ、日本のNGOというのは、ボランティアが基本でお金の話はしないのだ、ということがわかり、唖然とします。

そこで国際NGOに目を向けます。プランという名の国際NGOの面接を受けました。プランの現場の事務所長のポストの採用基準は、その道の実務経験を有することです。しかし、「スラム住民40万人を一つの力にして開発事業を行政からもぎ取り、その結果秘密警察からマークされた」というと、先方は目を丸くして即座に採用が決まりました。

通知された着任地は、世界最貧国であるアフリカのシェラレオネでした。母親を含めて家族全員を引き連れ、4年間のシェラレオネ生活が始まります。この国のある地方で、現地スタッフ200人と年間予算数億円を使い、その地方が必要とする支援を行いました。国家予算が30億円の国でです。

アフリカから日本に戻り、いろんな仕事を手がける1999年のある日、外務省国連政策課を名乗る男性から一本の電話が入ります。
東チモールで民兵とインドネシア軍による徹底した破壊行為が行われた後、国連が東チモールにPKOを創設することになります。国連が暫定政府を設立します。この活動に参加しないかという誘いでした。
東チモール国連暫定政府で、伊勢崎氏はある県の県知事を務め、地方行政を統括しました。その県に在任する約50人の国連民政官、50人の国連文民警察、22人の国連軍事監視団、1500人の国連平和維持軍(PKF)を統括する責任を負います。

次の舞台はまたアフリカのシェラレオネです。
伊勢崎氏がNGOで赴任したシェラレオネから離任する頃、そこは内戦の舞台となっていました。反政府ゲリラRUFは、各地で住民の子ども達の両手両足を切断し、あるいは子供を誘拐して兵士に仕立て親兄弟を殺害させます。
このような悲惨な内戦が10年続き、その後停戦が成立します。
2001年、伊勢崎氏は、国連PKOミッションの武装解除を統括する部署の責任者として着任します。
以前記載したとおり、武装解除活動は、DDR(Disarmament, Demobilization, Reintegration)と呼ばれ、武装解除、動員解除、社会再統合の3つをこの順番で実施していく必要があります。
昨日まで戦っていた相手がまだ武装して近所にいる中で、いかにして双方から武器を取り上げるか。そのような困難な仕事を、伊勢崎氏はやり遂げます。2002年4月、武装・動員解除の完了を見届けて国連を退職し、帰国して大学教授になりました。

そしてアフガニスタンです。
2002年、突然外務省から電話がかかります。アフガニスタンのDDRを、日本が背負うことになっていたようなのです。武装解除は武器を扱う軍事オペレーションであり、日本のODAが最も忌避していた分野です。なぜ日本が?
川口順子外務大臣がアフガニスタンを訪問し、「復員についてお手伝いを」的に発案した結果がこれだったようです。
ということで伊勢崎氏は、外務大臣任命の日本政府の特別顧問としてカブールの日本大使館にDDR班を構えることになります。大学を止めるわけにはいかないので、1年間の期限で、この任務に就くことになりました。
1年経過後に伊勢崎氏は離任しますが、その後を後任者が引き継ぎます。そしてこの任務の成果は、以前に報告したとおりのすばらしいものでした。

いやはや、こんなすごい日本人がいたんですね。

なお、書名にある「紛争屋」について。
世界のどこかで紛争が起き、国連が介入すると決めた場合、速やかに派遣団を集めなければなりません。まずトップグループの人選が進み、選ばれた人たちが、実働部隊を速やかに集めます。このとき、紛争解決の実力と実績を持ち、なおかつすぐに馳せ参じることのできる人たち、これを伊勢崎氏は「紛争屋」と呼んでいるのです。
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2 コメント

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読ませていただきました (Tazu)
2007-11-21 16:33:14
こんにちは。僕のBlogにトラックバックしていただいて、ありがとうございます。この本のこともそうですが、自分の全く知らない分野、世界についてもアンテナを張るよう心がけているので、とてもありがたいです。それでは、失礼しました。
返信する
Tazuさん、いらっしゃい (ボンゴレ)
2007-11-22 23:06:15
コメントありがとうございます。

貴ブログ
http://www.plus-blog.sportsnavi.com/tazu/
での、ドイツ、そしてヨーロッパサッカーの情報をこれからも楽しみにしています。
Tazuさんが参加しているドイツのアマチュアサッカーでさえ、湯浅健二氏やオシム氏が目指す「よいサッカー」と価値観を共有していることを知りました。
早く、「世界の常識が日本の常識」になってくれればと願っています。そのためにも、今後ともヨーロッパサッカー情報を発信し続けてください。
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