弁理士の日々

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藤原正彦「祖国とは国語」

2009-08-13 19:25:16 | 歴史・社会
藤原正彦氏は、「流れる星は生きている (中公文庫BIBLIO20世紀)」を書いた藤原ていさんを母とし、作家の新田次郎氏を父とする数学者です。ベストセラー「国家の品格 (新潮新書)」の著者でもあります。
藤原ていさんが、終戦時の混乱の中、3人の幼子を連れ、満州の新京(今の長春)から朝鮮の38度線を徒歩で越えて命からがら生還したとき、次男の正彦ちゃんは3~4歳でした。
その藤原正彦氏の「満州再訪記」が、以下の書物の中に収録されています。
祖国とは国語 (新潮文庫)
藤原 正彦
新潮社

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《満州へ赴任した理由》
「祖国とは・・」によると・・・、
父・新田次郎氏は無線電信講習所(現・電気通信大)出身です。当時のお役所では、東大出身でない者の出世には限界がありました。負けん気の人一倍強い父は「東大出が何だ」と言って研究に没頭していました。「満州に行けば課長になれる」ということが最大の動機だった、としています。
「流れる・・・」では、「満州に行けば夫は招集されずにすむ」という点が記されていました。

《新京から脱出したときのいきさつ》
「祖国とは・・・」に記されたところによると、
ソ連軍は8月9日零時を期して満州になだれ込みます。「旧満州国中央観象台史」(自費出版)によると、中央観象台長はその事実を(9日)昼頃になって知り、部下を関東軍司令部に行かせたが、関東軍はすでに朝鮮国境に近い通化の山中に移転していました。
仕方なく満州国交通部に問い合わせたところ、「今後の部下の行動は貴官において指揮されよ」との大臣指示があります。その指示を受けて(9日)夜10時頃、全中央観象台員に非常招集が発せられ、その席で、まず家族から新京を脱出することが決定しました。
このようないきさつにより、藤原さんたち母子は10日午前1時半に新京駅集合の指令を受け、翌朝(10日)、家族を乗せた列車は南に向けて出発します。

著者の藤原正彦氏は、種々の事実を調査した上でこのように記載していると思います。しかし、半藤一利氏の「ソ連が満洲に侵攻した夏 (文春文庫)」について7月20日に記事にしたとおり、上記の日時は半藤氏の著書と一致しません。
半藤著書によると、関東軍総司令部が新京在住居留民の後送を決めたのは、8月10日の正午少し前です。軍官の要人会議で決められたはじめの輸送順序は、民・官・軍の家族の順だったそうです。そして第一列車はその日の午後6時出発と決められました。11日の正午頃までに18列車が新京駅を離れました。また、関東軍司令部が新京を離れたのは11日であるとしています。
中央観象台職員の家族の避難を決めたのは、9日なのか10日なのか、気になるところです。
また、18列車の乗車順序を決めることは、もちろん中央観象台長の一存で決まるはずがありませんから、家族の新京駅集合時刻についても、満州国なり関東軍の指揮の下で行われたと思われます。

《平成13(2001)年8月、藤原正彦氏一家と藤原ていさんは、満州を訪問することになった》
混乱の中で脱出した満州の地を訪れることは、長い間、正彦氏の夢でした。しかし父・新田次郎氏が生きていた頃、いつも新田氏の拒絶で話は頓挫します。ソ連兵に強制連行された新田氏は、共産主義下のソ連や中国に足を踏み入れるや、再び収容所へ連れて行かれる、と終生、本気で信じていました。
「母の衰えが目立つようになったここ数年は、早く母と一緒に訪れなくては、と年に何回も思った。」「他方では、80歳を超え、体力低下とわがまま増大の著しい母を、連れて旅することの憂鬱も感じていた。」
このような中、正彦氏の奥様の発案で、満州を訪問することが決まりました。

《長春で》
滞在する豪華なシャングリラ・ホテルを一歩出ると、雑居ビルや貧相な店や露店が建ちならんでいます。しかし突然、度肝を抜くような巨大広場に出ます。直径200メートルもありそうな大同広場(現・人民広場)です。広場に面して、旧満州国の中央銀行、電電公社、首都警察庁などが威風堂々と並んでいます。今も同じような目的で使われています。
大同広場から真北の新京駅まで一直線に幅60メートルの大同大街(現・人民大街)がとおっています。駅前にはやはり直径200メートルほどの半円形広場があります。

正彦氏は旧新京満鉄病院で、妹の咲子ちゃんは官舎で産まれました。
この長春訪問で、遅れて到着した藤原咲子氏と旧新京満鉄病院を訪ねたときです。
「ひがみっぽい妹が『お母さん私はどうしてここで生まれなかったの』と聞いた。母は『たぶん間に合わなかったんでしょうね』といい加減なことを言う。『うそでしょ。倹約したんじゃないの、お産婆さんの方が安いから』。・・・・妹はしばらく機嫌が悪かった。」
藤原咲子氏は著書「母への詫び状 - 新田次郎、藤原ていの娘に生まれて」において「自分は母から愛されていないのではと思い悩む」と書かれているらしいのですが、ひょっとすると単なるひがみかも知れませんね。

《昔住んでいた官舎探し》
藤原ていさんは、昔住んでいた住所「新京特別市東安街政府第八官舎二十一号」をスラスラ言えます。しかしその場所がわかりません。2日間、長春の街中をあっちこっちと動き回りますが、どうしても見つかりません。
「流れる・・・」を最近読んだばかりの私には、この点がどうしても腑に落ちませんでした。
その理由がほどなくわかります。正彦氏ら一行は、「流れる・・・」を読み直していなかったのです。そのため、その本の中にヒントがあることをすっかり忘れていました。
2日目の午後、正彦氏の三男のサブちゃんが口を開きます。「新京駅は官舎から大同大街を一直線に4キロ、と『流れる星は生きている』に書いてあるよ」「すごい、サブ、でかした」
そしてあっという間に、あれだけ見つからなかった官舎の位置を特定することができたのです。残念ながら目的の官舎は、藤原氏たちが訪れる8年前に建て替えられていました。

《新京駅で》
「私は母に言った。『あの日の駅のこと覚えている』
『いやもうほとんど忘れちゃいましたよ。雑然とした薄暗い構内、われ先にと殺気だった群衆、くらいしか覚えていない』『どんなことをしてでもこの子たち三人を生かして日本へ帰ろう、とばかり考えていたからね』・・・
私はなぜか明るい声で、母に、
『あの時は一年以上もかかって日本にたどり着いたけど、ありがたいことにこんどは飛行機であっという間だよ』
と言った。
『お前たちももう足手まといにならないからね』
『足手まといはお母さんだけだよ』
『ホントだね』
母の久しぶりの笑い声が駅の天井に響いた。」
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