藤原ていさんの「流れる星は生きている (中公文庫BIBLIO20世紀)
」は、昭和20年の夏、藤原さん自身が満洲の新京から脱出する様子を描いたドキュメントでした。
あのときに満洲で起こった事象の全体を描いた本としては、以下の本があります。
今回、昭和20(1945)年8月10日前後に新京で何が起こったのか、上記半藤さんの本で再確認してみました。
ソ連軍がソ満国境を越えて突如満洲になだれ込んだのは、8月9日の午前1時前です。
新京(長春)には関東軍総司令部があります。新京在住の居留日本人は約14万人といいます。
関東軍総司令部が新京在住居留民の後送を決めたのは、8月10日の正午少し前です。軍官の要人会議で決められたはじめの輸送順序は、民・官・軍の家族の順だったそうです。そして第一列車はその日の午後6時出発と決められました。
しかし、第一列車が出発したのは遅れに遅れて11日の午前1時40分であり、さらに軍人家族が真っ先に列車に乗りました。軍人家族には、10日午後5時に広場に集合、の非常指令が早く伝えられています。
そして会議で決まった避難順序がいつの間にか逆になるにつれ、こんどは軍人家族の集結・出発を守る形で、ところどころに憲兵が立ちます。自分らも、と駅に集まった市民は、なぜか憲兵に追い払われるようになります。
こうして11日の正午頃までに18列車が新京駅を離れました。避難できたものは新京在住約14万人のうちの3万8千人。内訳は軍関係家族が2万3百人、大使館など官の関係家族750人、満鉄関係家族1万6千7百人。ほとんどないにひとしい残余が一般市民です。
「11日も昼すぎになると、新京駅前広場は来るはずもない列車を待つ一般市民で次第に埋まってきた。駅舎に入りホームにあふれ、怒号、叫び声そして泣き声が入り交じって異様な熱気にあたり一帯が包まれた。これらは口々に、軍人の家族や満鉄社員の家族の有線に対する不満と怨みの声をあげたのである。」
「幸いに列車で新京をあとに国境を越えることができた人たちのその後を待ち受けていたのは、苦難な平壌での生活で、多くの家族が結局は飢えや伝染病で死んだ。しかし、そんな不運をのちに知ることがあっても、しばらくはだれも信じようとはしなかった。」
新京から列車に乗れた段階で、政府関係者家族である藤原さんはまだ幸運な方であり、列車に乗れなかった一般日本人が大量にいたということですね。
また、「流れる星は生きている」では、藤原さんのご主人が役所に非常呼び出しされたのが9日の夜中とありますが、半藤著書と整合するためには、10日の夜中と考えるべきでしょうか。そしてその夜のうちに新京駅に到着し、11日の午前10時になって藤原さん達を乗せた列車が出発したと。
半藤著書で、11日午前1時40分から11日正午までに出発した18列車のうち、最後の方の列車に乗れたのでしょう。
半藤著書には、藤原さん達家族の姿とオーバーラップする忘れ得ぬ悲劇が掲載されています。
黒河というと、新京より遙か北、ソ満国境にある都市です。その黒河から、兵隊として徒歩での待避行動を行った日本兵が見た事実です。
『「黒河を出てから4、5日後になって、ふと気付くと、日本人一家が必死になって歩いていた。われわれ兵士の隊列と前になったり、後になったりしながら、数日間も遠方で、あるいは間近にその姿を見せていた。会話を交える余裕は双方になかったので、まなざしで頑張れと挨拶するだけだった。」
一家は、三十代後半ほどの母と、7、8歳と4、5歳の男の子二人、それに母の背には乳呑子、それと元使用人かと思われる中国人の老爺であったという。立ち止まったとき、背中の子供に乳をやり、男の子二人にも何やら食物を与えていた母の姿を望見したりした。
「彼女は、兵隊さん、一緒に連れて行ってとは一言も口にすることなく、数日の間、われわれと同じ道を辿っていた。だが、いつしか視野から消えてしまった。」
・・・
そして、この母子4人のその後はだれも知らない。いまたずねだすことも不可能なのである。』
母子が逃げ延びるためには、何百キロも歩かねばならないはずですから、おそらく生き延びることはできず、満洲の地に散ったのでしょう。
当時の日本軍は大きくは「国体の護持」を目的とし、小さくは「命令を遵守」することが絶対でした。満州在住日本人を保護するなど思いもつかなかったでしょう。それを居留民も知っていましたから、この母親は日本兵に助けを求めることをしなかったと思います。
半藤著によると、在満日本人のうち、ついに日本に帰れずに死亡した人の数は明確ではありませんが、約18万人としています。
あのときに満洲で起こった事象の全体を描いた本としては、以下の本があります。
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今回、昭和20(1945)年8月10日前後に新京で何が起こったのか、上記半藤さんの本で再確認してみました。
ソ連軍がソ満国境を越えて突如満洲になだれ込んだのは、8月9日の午前1時前です。
新京(長春)には関東軍総司令部があります。新京在住の居留日本人は約14万人といいます。
関東軍総司令部が新京在住居留民の後送を決めたのは、8月10日の正午少し前です。軍官の要人会議で決められたはじめの輸送順序は、民・官・軍の家族の順だったそうです。そして第一列車はその日の午後6時出発と決められました。
しかし、第一列車が出発したのは遅れに遅れて11日の午前1時40分であり、さらに軍人家族が真っ先に列車に乗りました。軍人家族には、10日午後5時に広場に集合、の非常指令が早く伝えられています。
そして会議で決まった避難順序がいつの間にか逆になるにつれ、こんどは軍人家族の集結・出発を守る形で、ところどころに憲兵が立ちます。自分らも、と駅に集まった市民は、なぜか憲兵に追い払われるようになります。
こうして11日の正午頃までに18列車が新京駅を離れました。避難できたものは新京在住約14万人のうちの3万8千人。内訳は軍関係家族が2万3百人、大使館など官の関係家族750人、満鉄関係家族1万6千7百人。ほとんどないにひとしい残余が一般市民です。
「11日も昼すぎになると、新京駅前広場は来るはずもない列車を待つ一般市民で次第に埋まってきた。駅舎に入りホームにあふれ、怒号、叫び声そして泣き声が入り交じって異様な熱気にあたり一帯が包まれた。これらは口々に、軍人の家族や満鉄社員の家族の有線に対する不満と怨みの声をあげたのである。」
「幸いに列車で新京をあとに国境を越えることができた人たちのその後を待ち受けていたのは、苦難な平壌での生活で、多くの家族が結局は飢えや伝染病で死んだ。しかし、そんな不運をのちに知ることがあっても、しばらくはだれも信じようとはしなかった。」
新京から列車に乗れた段階で、政府関係者家族である藤原さんはまだ幸運な方であり、列車に乗れなかった一般日本人が大量にいたということですね。
また、「流れる星は生きている」では、藤原さんのご主人が役所に非常呼び出しされたのが9日の夜中とありますが、半藤著書と整合するためには、10日の夜中と考えるべきでしょうか。そしてその夜のうちに新京駅に到着し、11日の午前10時になって藤原さん達を乗せた列車が出発したと。
半藤著書で、11日午前1時40分から11日正午までに出発した18列車のうち、最後の方の列車に乗れたのでしょう。
半藤著書には、藤原さん達家族の姿とオーバーラップする忘れ得ぬ悲劇が掲載されています。
黒河というと、新京より遙か北、ソ満国境にある都市です。その黒河から、兵隊として徒歩での待避行動を行った日本兵が見た事実です。
『「黒河を出てから4、5日後になって、ふと気付くと、日本人一家が必死になって歩いていた。われわれ兵士の隊列と前になったり、後になったりしながら、数日間も遠方で、あるいは間近にその姿を見せていた。会話を交える余裕は双方になかったので、まなざしで頑張れと挨拶するだけだった。」
一家は、三十代後半ほどの母と、7、8歳と4、5歳の男の子二人、それに母の背には乳呑子、それと元使用人かと思われる中国人の老爺であったという。立ち止まったとき、背中の子供に乳をやり、男の子二人にも何やら食物を与えていた母の姿を望見したりした。
「彼女は、兵隊さん、一緒に連れて行ってとは一言も口にすることなく、数日の間、われわれと同じ道を辿っていた。だが、いつしか視野から消えてしまった。」
・・・
そして、この母子4人のその後はだれも知らない。いまたずねだすことも不可能なのである。』
母子が逃げ延びるためには、何百キロも歩かねばならないはずですから、おそらく生き延びることはできず、満洲の地に散ったのでしょう。
当時の日本軍は大きくは「国体の護持」を目的とし、小さくは「命令を遵守」することが絶対でした。満州在住日本人を保護するなど思いもつかなかったでしょう。それを居留民も知っていましたから、この母親は日本兵に助けを求めることをしなかったと思います。
半藤著によると、在満日本人のうち、ついに日本に帰れずに死亡した人の数は明確ではありませんが、約18万人としています。
第二次大戦末期、日本が停戦への道をソ連の仲介で進めようとしたのは、いかにも愚策でした。
ソ連の事情をよく分かった人たちは、時間の無駄であることをわかっていたのですが、当時の陸軍などがむしろソ連を頼ったようです。
ポツダム宣言が出てから日本がこれを受諾するまでの時間ロスがなければ、満洲で起こった悲劇も幾分かは少なくて済んだのではないかと残念に思います。