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弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

和田堀給水所(3)

2015-01-11 18:27:03 | 杉並世田谷散歩
京王線の代田橋と明大前の間で、南側の車窓から和田堀給水所を見ることができます。この和田堀給水所が建て替え工事に入っていることについて、昨年1月に記事にしました。そして昨年10月19日時点での工事進捗状況をこちらで報告しました

さらに、本年1月11日に工事進捗を確認してきましたので、ここに報告します。
和田堀給水所には地上タンクが2つあります。円筒形の1号配水池と、方形の2号配水池です。現時点でも、円筒形の1号配水池についてはまだ工事の形跡はありません。
一方、方形の2号配水池については、その四方を取り囲んでいた土手が完全に取り払われ、さらに北側についてはコンクリート構造物の解体撤去も開始されていました。今回はその状況について、昨年1月時点での写真と対比して報告します。

《正門から・2号配水池北面》

本年1月


昨年1月

《西から・2号配水池南面》東京都庁を遠望

本年1月


昨年1月

《東から・2号配水池南東角》

本年1月


昨年1月

《南から・2号配水池南面》

本年1月

《1号配水池》

本年1月
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和田堀給水所(2)

2014-10-19 18:41:47 | 杉並世田谷散歩
京王線の代田橋と明大前の間で、南側の車窓から和田堀給水所を見ることができます。この和田堀給水所が建て替え工事に入っていることについて、本年1月に記事にしました。その時点では、まだ現地を見ても給水プールに変化は見られなかったのですが、それから10ヶ月が経過し、だいぶ土木工事が進捗してきたようです。10月19日に現地に出かけて写真を撮ってきたので、ここで経過を報告しておきます。

和田堀給水所には地上タンクが2つあります。円筒形のタンクと、方形のタンクです。現時点で、円筒形のタンクについてはまだ工事の形跡はありません。
一方、方形のタンクについては、その四方が土手で囲まれているのですが、その土手の一部が撤去されてコンクリート製の壁が露出しています。今回はその状況について、本年1月時点での写真と対比して説明します。

《正面の門から》
 
2014.10.19.

《正面の門から》
  
2014.10.19.                       2014.1.12.

《北東の角から》
  
2014.10.19.                       2014.1.12.

《南西の角から》
 
2014.10.19.                       
 
2014.1.19.
遠景に東京都庁舎が見えます。
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和田堀給水所

2014-01-22 23:25:00 | 杉並世田谷散歩
京王線の代田橋と明大前の間で、南側の車窓から和田堀給水所を見ることができます。いかにも古そうなコンクリート製の円筒形タンクと、四周を土手で囲まれた四角形の貯水槽らしき盛り上がりです。コンクリート円筒形タンクの中心とおぼしきところには、明治調の角塔が建っています。また四角形の貯水槽の土手の上には、ギリシャ神殿を思わせるような不思議な建物が建っています。

この和田堀給水所の構内でなにやら工事が始まっています。どうも貯水槽を撤去するらしき様相です。
そこで、散歩がてら和田堀給水所に出かけていきました。

柵に掲げられた掲示板を見ると、やはり新しい建造物が建つ模様です。「給水所」とあり、用途は給水所のままでリプレースするということでしょうか。鉄筋3階建てで、完成が平成34年とはまたずいぶん先です。

そこで、今までの由緒ありげな貯水槽が撤去される前に記念写真を撮っておくこととしました。

まずはコンクリート製円筒形タンクです。

ちょっと高いところから全景を取ったのが上の写真です。さらに上から撮ると、下の写真のように、たしかに天井を有するタンクであることがわかります。角塔はタンクの中心に配置されています。


次に四角形の貯水槽です。

四角く囲まれた土手のうち、南北の土手の中央頂上に、不思議なギリシャ風建物が建っています。上と左下は南側土手、右下は北側土手の建物です。
 

給水所に隣接する西側には、以前は何やら会館らしき建物がありました。ところが今回行ってみたら、私が知っている会館は跡形もなく、その代わりに巨大なテント倉庫が出現していました。下の写真です。標識には「東京都水道局大原緊急資材置場」とありました。



さて、和田堀給水所で一体何が起ころうとしているのか、ネット検索して以下のサイトを見つけました。
和田堀給水所 最後の見学会
昨年10月5日に和田堀給水所の最後の見学会があり、それに参加された方の記録です。

和田堀給水所 (2013年10月)
こちらのサイトにも詳しい記録があります。

土木学会附属土木図書館の土木建築工事画報の、1931年4月号には、1号配水池に関する記録(東京市水道局和田堀浄水池工事)が掲載されています。

ところで、北西は吉祥寺、南東は渋谷に至るまで、井の頭通りという道路があります。吉祥寺から明大前付近までは見事な一直線なのですが、明大前を過ぎたところで突然細いくねくね道になり、またその先は見事な直線となって原宿当たりまで続きます。くねくね道において、井の頭通りは文字通り分断されています。そのくねくね道のど真ん中が、今回の和田堀給水所です。
もともと井の頭通りは、水道管が設置された土地をそのまま道路にした「水道道路」としてスタートしました。だから、給水所から北西方向、南東方向に向かう水道管が設置された直線部分はまさに直線であり、中心となる給水所で両方の道路は分断されるのです。
この分断はとても不便です。今回、せっかく和田堀給水所をリプレースするのであれば、井の頭通りの分断を解消してくれたらいいのに、と思いました。
調べてみると、北沢総合支所街づくり課が発行している「和田堀給水所 街づくり誘導指針」の2ページに、井の頭通りの計画が記述されていました。2ページ最後の地図に「放射23号」という記述があります。現在和田堀給水所で分断されている井の頭通りは、将来、和田堀給水所の南端をかすめる新道の建設により、つながる計画になっているのですね。
しかしこの計画では、和田堀給水所に隣接する部分については現在の和田堀給水所敷地が供されますが、それ以外は現在住宅地になっている場所を買い上げて道路用地にするのですね。井の頭通りの環七交差点から和田堀給水所に至る部分は、航空写真で見ると大部分が更地になっており、買収は進んでいるようです。しかし、和田堀給水所の西端から甲州街道の松原交差点付近までについては、航空写真で見ても実際に歩いても、現在は道路予定地の建物が撤去されているような気配は全く感じません。
さて、いつ頃この道路は完成するのでしょうか。

ps 2014.10.19.「和田堀給水所(2)」を記事にしました。

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2014年初詣

2014-01-01 22:48:35 | 杉並世田谷散歩
新年おめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

元旦の初詣、本年は杉並の大宮八幡にお参りました。

4歳児と2歳児を同伴するので、最近は車を利用して神社まで移動しています。神社に最も近い駐車場は長蛇の列となるので利用できません。大宮八幡は善福寺川の南岸に位置するのですが、川の北岸に堀之内公園の駐車場があります。そこだと常に空いているのです。
井の頭通りを西進し、荒玉水道との交差点で右折して荒玉水道道路に入ります。そして方南通りを通り越した次の次の信号で左折すると、目的とする駐車場に到達することができます。

初詣の列は、例によって鳥居の近くまで伸びていましたが、列の動きは速く、さほど待たずに参拝することができました。

さて、年末は安倍総理の靖国参拝で暮れました。
国内での評価は、どのアンケートでも半分以上が総理の靖国参拝を支持しています。
一方で海外の評価は非常に厳しいものがあります。米中韓に限らず、主要国はいずれも安倍総理に対する警戒感が明らかです。
中国の外務省は、各国に対して安倍総理非難の包囲網を形成しようと動いています。日本政府が世界各国に理解を求めようとする動きは全く見えません。
国内の世論と海外から評価のこのギャップ、日本の行く末に影を落とさなければいいのですが。
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2012年元旦

2012-01-01 17:59:14 | 杉並世田谷散歩
2012年の新年が明けました。
去年は東日本大震災と福島原発事故を経験したため、新年を“おめでとう”と祝って良いのかどうかと議論がありました。それはさておき、今年は良い年にしたいものです。

今年の元旦は集まった家族で、わが家の氏神である和泉熊野神社ウィキ)に初詣に行って来ました。
 
和泉熊野神社                 本殿の龍の彫り物

本殿には龍の彫り物があります(右上写真)。
この神社に隣接して貴船神社があります。貴船神社境内の池は、その昔は水が湧く泉であり、村民の雨乞いの場所でもあったといいます。“和泉”という地名もこの泉に由来しています。
そしてこの泉から龍が天に昇ったという言い伝えを聞いたことがあります。同じく隣接する龍光寺の名前の由来でもあります。
熊野神社本殿の龍の彫り物も、この言い伝えの龍に由来するかもしれません。

いずれにしろ、本年は辰年ですから、和泉の龍の年でもあるといえます。
和泉の龍伝説にあやかって、本年が日本にとってもわれわれにとっても昇竜の年であることを祈りましょう。

本年もこのブログをよろしくお願い申し上げます。
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玉川上水(11)

2011-01-14 22:00:19 | 杉並世田谷散歩

前回は牟礼橋から浅間橋までをたどりました。さらに先に進みます。

  
浴風会
浅間橋からは、中央高速道の北側の歩道を進みます。ほどなくして左側に浴風会病院が見えてきます。
浴風会の沿革と歴史 によると、浴風会は、大正12年(1923年)9月の関東大震災の後、大正14年(1925年)に設立されました。浴風会の事業は養老事業と老年医学の発祥として事業を行っていました。終戦に伴い、生活保護法による保護施設として再生復興し、さらに昭和38年(1963年)に老人福祉法による施設として事業が運営され、平成12年(2000年)4月の介護保険法の施行を経て今日に至っいます。
わが家は7年前に杉並の現住所に居を構えたのですが、土地は地元の地主さんから購入しました。その際に地主(複数)の方々から、この周辺の昔話をうかがいました。玉川上水の話もありまして、老人ホームである浴風会に入居している方が玉川上水に身投げされるという事例がよくあったらしいのです。浴風会付近で入水すると、その下流の水衛所は和田堀ですから、まさにわが家の周辺では騒ぎになったのでしょう。
今回、その浴風会がまさに玉川上水に隣接して設けられていることを実感しました。その点は、浴風会のgoo地図の昭和22年航空写真からも明らかです。

さて、人喰らい川としての玉川上水の話をもう一つ。
宅急便の生みの親でヤマト運輸の中興の祖である小倉昌男氏が、日経新聞の私の履歴書で連載していることがありました。その連載で知ったのですが、小倉氏のご兄弟の一人が幼い頃、玉川上水に落ちて亡くなったというのです。ウィキによると、小倉氏は幡代小学校卒業とあり、幡代小学校は渋谷区初台にあって玉川上水とまさに隣接しています。このあたりで事故に遭われたのでしょう。

浴風会のすぐ下流に第六天神社がありました(左下写真)。説明によると鎌倉時代に建立されたようです。社殿に向かって左側に、日露戦役紀念碑が建っていました(下中央写真)。裏面には従軍者の名前が刻まれ、明治39年9月とありました。
さらにその先で環状八号線道路と交差します(右下写真)。
  
第六天神社        日露戦役紀念碑         環八との交差点

 
甲州街道と分かれる                    玉川上水遊歩道
中央自動車道は、上北沢で甲州街道(国道20号線)と合流します。そしてその同じ場所で、玉川上水は中央自動車道から北側に分離します。左上写真の赤い柵から先の左手方向がそれです。ここから先は、明大前で再度甲州街道と合流するまで、玉川上水の跡地がずっと遊歩道(上水公園)として続いています。右上写真の場所では、北側(写真の左側)が遊歩道よりもだいぶ低くなっています。玉川上水建設時、左側の堤を高く積み上げて上水を通したのでしょうか。
上水は途中で荒玉水道道路と交差します(左下写真)。荒玉水道道路とは不思議な道路で、片側一車線で狭い道路なのですが(一部は一方通行)、多摩川に近い成城学園の付近から杉並の妙法寺の近くまで、ほぼ一直線で伸びているのです。道路の下に水道が埋まっているのでしょう。
上水公園は場所によって周囲よりも低い位置となります(右下写真)。
 
荒玉水道道路と交差                    玉川上水遊歩道
 
甲州街道と合流                      龍泉寺
下高井戸付近で玉川上水は再度甲州街道(中央高速道)とぶつかり、ここから先は甲州街道の北側を並行して走ります(左上写真)。この近くには寺院が多く、その一つが右上写真です。
そして、上水公園が一端途切れます(下の写真)。
 
玉川上水遊歩道                      玉川上水遊歩道
  
築地本願寺和田堀廟所                             土盛り
上水公園が途切れた後、甲州街道の北側に築地本願寺和田堀廟所とその附属墓地が見えてきます(左上写真)。お寺の正面に建つ石柱です(上中央写真)。「皇紀二千六百年記念」とあります。昭和15年建立です。
和田堀廟所からその先の明治大学敷地にかけて、右上写真に見られるような土盛りが見られます。私は、この下に玉川上水の水道管が埋まっているとふんでいるのですが、どうでしょうしか。
そして明治大学和泉校舎です(左下写真)。この門の近くに、「塩硝蔵地跡」という説明板があります。現在命題和泉校舎と本願寺和田堀廟所となっているこの付近は、江戸幕府の塩硝蔵(鉄砲弾薬等の貯蔵庫)として使用された跡なのです。明治維新の際に塩硝蔵は新政府軍に接収され、その弾薬は上野彰義隊や奥州諸藩の平定に使用され、威力を発揮したそうです。大正の末期に廃止されるまで陸軍の火薬庫として使用されました。
明大の門から京王線・井の頭線の明大前駅に行くには甲州街道を渡る歩道橋を利用する必要があります。最近、その歩道橋にエレベータが設置されました(右下写真)。便利になったものです。
 
明治大学和泉校舎                   明大前歩道橋のエレベータ
  
玉川上水の鉄パイプが井の頭線の線路を高架する
明大の校門を過ぎると、玉川上水は再度甲州街道から逸れます。そしてすぐに井の頭線と交差します。交差地点で、井の頭線は低地を走っています。玉川上水は井の頭線の線路の上を通過するのです。左上写真で、下を井の頭線が通過しており、コンクリート製の架台の上に鉄パイプが走っています。上中央写真はその鉄パイプを撮ったものです。さらに近づいてみると、右上写真のように、鉄パイプは上下2段になっています。
さて、その昔、井の頭線がなかった頃は当然ながら普通に開渠が通っていたと思われます。井の頭線が開通したとき、玉川上水はどのように処置されたのでしょうか。ここでまたgoo地図の登場です。こちらの地図の中央やや上寄りに井の頭線と玉川上水の交差位置を置いています。「昭和22」の航空写真を表示すると、高架橋は同じように存在するものの、鉄パイプはなさそうです。この写真から判断するところ、この高架橋の上を玉川上水は開渠として流れていたように見えます。水道橋ということですね。
浅間橋から下流側が暗渠化されたとき、この高架水道橋についても上下2段の鉄パイプ化されたのでしょうか。

     「明治二十年 二万分の一」古地図史料出版株式会社から
さらに、古地図史料出版株式会社の明治20年地図で、明治20年当時にこの界隈がどうなっていたのかを確認しておきます(上図)。青色の彩色は私が色鉛筆で記入しました。
「火薬庫」が残っています。ここが、現在の明大和泉校舎と築地本願寺和田堀廟所に生まれ変わったわけですね。
「現在の明大前駅」の下に「谷筋(現在の井の頭線)」と記入しました。井の頭線は、明大前駅の南側は谷筋に沿って設けられ、明大前駅の北側については土地を掘り込んで線路にしています。そのため、甲州街道と玉川上水の下を通過することになったのです。井の頭線を建設するに際し、玉川上水が井の頭線をほぼ直角に横切るよう、上水について若干の位置変更をしている模様です。
次回の経路に含まれることになりますが、上の地図には代田橋が記入されています。明治20年当時、甲州街道が玉川上水を横切るに際し、甲州街道側が折れ曲がって交差していたのです。そこに架けられた橋が代田橋であり、現在の京王線代田橋駅の語源になっています。

 
久左衛門橋                遊歩道終端から上流を見る
明治大学の正門からはじまった上水公園は、井の頭通りに突き当たるまで続きます。その途中に「久左衛門橋」と表示された欄干が設けられています(左上写真)。ここが開渠だった頃、久左衛門橋と名付けられた橋が架かっていたのでしょう。名前の由来を知りたいですが、わかりませんでした。
井の頭通りに至り、後ろを振り返った風景が右上写真です。
左下写真が遊歩道の終端で、その先に井の頭通り、そして井の頭通りの向こうに巨大な水道タンクが見えます。左下写真の右下の端には不思議なオブジェが設けられています。水門を形取っているようですが、開渠だった頃ここに水門が存在したのか、それともただの飾りなのか、これも不明です。
井の頭通りから撮った東京都水道局和泉給水所の巨大な2つのタンクが右下写真です。
 
遊歩道終端                東京都水道局和泉給水所
井の頭通り(正式には「井ノ頭通り」)は、「境浄水場から和田堀給水所までの間に水道管を敷設するための施設用地を道路に転用したために、以前は水道道路と呼ばれていたが、後に近衛文麿元首相によって井の頭街道と命名され、その後東京都によって井ノ頭通りと改められた。」(ウィキ)というものです。境浄水場~吉祥寺~和田堀給水所~渋谷駅付近の3区間に分けることができます。境浄水場は1924年通水、和田堀給水所(二号配水池)は1924年竣工とありますから、井の頭通りもそのころ作られたのでしょうか。

戻る                            続く
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玉川上水(10)

2011-01-12 22:07:47 | 杉並世田谷散歩

前回は三鷹駅から牟礼橋の手前までをたどりました。さらに先に進みます。

 
どんどん橋手前              牟礼橋
牟礼橋は、人見街道と呼ばれる道路にかかっています。人見街道は、井の頭通りを浜田山付近で分岐し、久我山を経て玉川上水をわたり、さらに三鷹市牟礼まで走る街道です。東京都府中市と杉並区大宮の大宮八幡神社を結ぶ、古くからの街道だったようです。
牟礼橋のたもとには「石橋建立供養之碑」についての説明が書かれています。
『三鷹市と杉並区の境、玉川上水に架かる牟礼橋は、「上水記」記載(「久我山橋、玄蕃橋とも云」)の古橋の一つで、昔は附中か移動(旧鎌倉街道)の旧久我山村(杉並区)と旧牟礼村(三鷹市)とを結ぶ交通の要衝だった。
別名東橋とも呼ばれたが、これは旧牟礼村の一番東にあったためで(現在は上流に“新”東橋が架かる)、久我山村では牟礼橋と呼んだ。またどんどん橋の名もあるが、“どんどん”とは急な水勢をあらわす擬声語で、主として子供たちの呼び名だった。』
私は、この「説明書き」の写真は撮ってきたのですが、ここに書かれている肝腎の「石橋建立供養之碑」があることに気づきませんでした。説明書きによると、「供養之碑」は宝暦七年(1757)11月の建立であることと建立の由来が書かれています。さらにその左には、この橋が寛政九年(1797)8月、ついで嘉永二年(1849)4月に架け替えられたことが刻まれています。上水最古の碑だそうです。
現在は並んで二つの橋が架けられ、人見街道の橋で玉川上水と斜めに交差する大きな橋が牟礼橋と呼ばれ、そのすぐ上流で玉川上水と直角に交差する小さな橋がどんどん橋と呼ばれているようです。現在のどんどん橋が、供養之碑に書かれた(旧)牟礼橋であるようです。
  
久我山水衛所跡             水難者慰霊碑          兵庫橋から見た久我山水衛所
牟礼橋の先、兵庫橋の手前に久我山水衛所跡があります。左上写真でわかるように、水路に格子が構築され、格子の幅よりも大きな浮遊物はこの格子に引っかかる仕掛けです。右上写真は、下流の兵庫橋から水衛所の格子を遠望したところです。玉川上水事典には『昭和40年、淀橋浄水場が廃止された時、芥上げや水路監視を行う水衛所は、熊川、砂川、小川、境、久我山、和田堀、代々木(余水吐際)、四谷大木戸にあった』と記されています。
境の次がこの久我山ですから、太宰治入水のときにも、三鷹からこの久我山水衛所までが捜索の範囲だったようです。こちらの記事によると『太宰治と愛人の山崎富栄が、三鷹駅近くの玉川上水に毒を飲んで入水心中をしたのが、昭和23年の6月13日のことでした。梅雨のさなかで水かさも増し、久我山水衛所までの捜索が続けられましたが遺体がなかなかあがらず、水衛所の格子で履物が見つかってほどなく、6月19日に明星学園前の玉川上水で腰紐でつながれた二人の遺体が見つかったのでした。』とあります。明星学園というのは玉川上水の図で新橋の南に所在しています。
久我山水衛所と兵庫橋の間の右岸に、水難者慰霊碑(上中央写真)がひっそりと建っています。写真を撮ってきただけなのですが、後から調べてみると、『国語学者の金田一京助のお嬢さんが、玉川上水で亡くなられたのを偲んで、金田一京助が詠んだ歌を昭和27年に歌碑にしたものです。「うれひなく さちかきりなき あめのくにに さきそひいませ とはやすらかに」と、石碑の裏に刻まれています。』とのことです(上述の記事から)。また、こちらには、「金田一博士の四女自殺」ということで1949年当時の新聞記事が紹介されています。

玉川上水事典によると、玉川上水は「人喰らい川」と呼ばれる恐ろしい水路でした。『玉川上水が豊かな水をたたえていた時代、周辺住民にとってはときに生命を奪う恐怖の対象でもあった。激しい急流で、秒速2メートル、もし人が落ちればひとたまりもない。渕は深くえぐれ、はい上がろうにも何かをつかむ手だてはない。
新聞記事によると、昭和33年からわずか5年間で玉川上水が飲み込んだ生命は自殺者も含めて90人にのぼっている。』
金田一博士のお嬢さんの遺体はとうとう見つかりませんでしたが、境から久我山までの区間で溺れた人は、ここ久我山水衛所で見つかることが多かったでしょうから、その意味でも水衛所の近くに水難者慰霊碑が建立されたのでしょう。
 
岩通ガーデン               岩崎通信
兵庫橋の次が岩崎橋です。橋の名前の由来は、おそらく橋の南西側にある岩崎通信機(右上写真)から来ているのでしょうね。そして橋の南側には、柵で囲まれた庭園が見られます。施錠された入り口から覗くと、「岩通ガーデン」という看板が見えます(左上写真)。看板に記載された図には、玉川上水の右岸から庭園を横断して青い線が描かれています。これは分水に違いありません。そこで玉川上水右岸と庭園の間を歩いてみたら、下の写真のような設備が見つかりました。ここがおそらく分水の入り口でしょう。

分水
こちらはgoo地図です。地図の上端に「昭和22」という枠があります。ここをクリックすると、昭和22年の航空写真を見ることができます。現在の岩通ガーデンは当時も森林であり、地図中央の十字からその森林を南東に向けて横切る線が見えます。この線が、往事の分水であった可能性が高いでしょう。ネット検索したら、烏山川を下るが見つかりました。『自然河川だった烏山川は玉川上水からの烏山村分水を接続したことにより灌漑用水として利用されるようになった。田んぼに水を引いたりして、水路が作られた。』この記事中のこの写真が、岩崎橋から見た分水口だそうです。上記記事のこの地図は、昭和22年の航空写真と付合しています。
ただし、私が見つけた分水の入り口は、烏山村分水の入り口よりも下流側にありました。さらに調べた結果、世田谷の川探検隊の北沢川という記事を見つけました。この記事中のこの写真が、まさに私が見た取水口と一致しています。私が見たのは北沢分水の取水口なのでした。
岩通ガーデンの南側で分水(結果的には烏山分水)の跡をたどろうと試みましたが、ガーデン南端から狭い路地が10メートルほど続き、その路地の下には暗渠が隠れていそうでしたが、10メートル先の道路は丁字路であり、分水の先は完全に埋め立てられて家屋が建っていました。

東京都世田谷区を代表する河川は北沢川と烏山川です。今はどちらも全線が緑道化していますが。その2大河川のいずれもが、ここ岩崎橋の近くで玉川上水から分水した水の供給を受けていたわけですね。

ところで、上記紹介したgoo地図で昭和22年の航空写真を見ると、今の岩崎通信機が位置する土地には多くの建物が整然と建っています。岩崎通信機の当時の工場に違いありません。ウィキで調べると、岩崎通信機は1943年に久我山の当地に本社・工場が完成し、1944年に「電波警戒機第1号機を東京第1陸軍造幣廠に納入」とあります。ということは軍需工場です。米軍B29の空襲を受けずに残ったのでしょうか。まさか終戦から2年間で工場を再建したのでもありますまい。

岩崎橋からその先の浅間橋までは、左岸のみに遊歩道があります。しかし私は右岸の分水を探しに行ったので、今更岩崎橋まで戻る気にもなれず、右岸を迂回して浅間橋にたどり着きました。
羽村取水口からここまで、ごく一部を除いてほとんどが開渠であった玉川上水は、ここから先で地下へ潜ります(下の写真)。開渠の終点が浅間橋です。この先ずっと、中央高速道の下をたどります。というか、中央高速道(上北沢からこの浅間橋まで)が玉川上水の上に建設されたというべきでしょう。
 
浅間橋終点と中央自動車道               暗渠に潜り込む箇所

続く
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玉川上水(9)

2011-01-10 14:02:18 | 杉並世田谷散歩
多摩川の羽村取水口から四谷大木戸まで続く玉川上水、今まで以下のコースを歩いてきました。
羽村取水口-拝島()(2008年11月23日)
拝島-鷹の台()(2010年2月20日)
鷹の台-三鷹()(2010年4月3日)

       玉川上水全体図(図面をクリックすると大きな地図になります)

また間が空きましたが、この1月8日に三鷹から明大前までのコースを歩いてきました(下の地図・クリックすると大きな地図になります)。

JR三鷹駅は、玉川上水の上に設けられています。そのため、玉川上水は三鷹駅の北西側で一度消滅し、その逆の南東側で再度現れます。左下の写真は、三鷹駅の南口を出たところから東方向を見た写真であり、遠方の木が生い茂った部分で玉川上水が現れています。その一番手前側に見える欄干が三鷹橋と呼ばれています。さっそく玉川上水の右岸を歩き始めます(右下写真)。
 
三鷹駅から南東方向                    玉川上水
  
                     太宰治碑
玉川上水というと、太宰治の入水自殺が有名です。
三鷹橋からむらさき橋に向かって玉川上水の右岸に並行して走る道路を進むと、玉川上水とは反対側の道ばたに、まずは「太宰治碑」(上写真)を見つけることができます。この碑に載せられた写真から、当時の玉川上水の水量が豊かであったことが見て取れます。
さらに少し歩いたところに、やはり玉川上水と反対側の道ばたに、「玉鹿石(ぎょっかせき)」が飾られています(左下写真)。銘板には『「玉鹿石(ぎょっかせき)」青森県北津軽郡金木町産1996年(平成8年)6月』と記載されているのみです。この場所が、太宰治と山崎富榮が1948年6月13日入水した地点だということです。この玉鹿石に面した位置に、小さなレストランが店を構えていました(右下写真)。
 
玉鹿石                  玉鹿石に面するレストラン
 
むらさき橋から                      万助橋から
 
万助橋                  井の頭恩賜公園西園
万助橋の南東側は、その北東側も南西側も公園になっており、木が生い茂っています(左上写真)。北東に行くと井の頭公園に続いています。そして南西側は「井の頭恩賜公園西園」と名付けられ(右上写真)、この先に三鷹の森ジブリ美術館があるとのことです。
 
万助橋からほたる橋の間          幸橋
 
新橋から松影橋の間            新橋から松影橋の間
右上写真は、上水から北側を撮ったものです。写真から分かるように、上水の北側は土地が低くなっています。
 
井の頭橋から若草橋の間          宮下橋で
宮下橋の下で、白鷺らしき鳥が水面に羽を休めていました(右上写真)。私が使っているカメラはキャノンのS90というコンパクトデジタルカメラです。このカメラの画像における唯一の問題点は、望遠端で白い被写体を撮影すると輪郭に色収差が出ることです。この写真も怪しかったのですが、鳥の輪郭がややぼやけているだけで色収差までは出ていないようです。

続く
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東京の街中に残る川の痕跡

2010-11-28 10:11:48 | 杉並世田谷散歩
日経新聞11月18日夕刊「らいふプラス」の欄に
「街探検、川の跡 見~つけた/ネットで古地図と現在比較」
という記事が載っています。

『普段、何気なく歩いている近所の遊歩道。そこが実は、かつて川だった、と聞くと驚く人が多いのではないだろうか。都市化に伴い、日本全国の多くの地域で、小さな河川は暗きょ化され、道路や遊歩道に生まれ変わっている。だが、注意深く歩くと、川だった時代の痕跡があちこちに見つかる。インターネットも活用しながら、身近な場所で、懐かしい過去の風景に思いをはせる。こんな趣味が静かに広がっている。』

何を隠そう、私も隠れ川跡フェチなのです。
杉並・世田谷の道々を散歩で回って、「ここは昔のどぶ川の跡ではないか」という怪しい路地が見つかるとわくわくし、その路地に分け入っていきます。
どのような場所が川跡かというと、
○ ものすごく狭い路地だが、くねくねとどこまでも続いている
○ 両側が段になって高くなっているところが多く、いかにもその路地が昔どぶ川だった風情である
○ 道路と交差する箇所に自転車止めの柵があり、「遊歩道」と書かれていることが多い
などの特徴を備えているところです。

杉並・世田谷は、戦前から終戦直後にかけては畑だったところが多く、畑の真ん中をくねくねと流れていた川が、その後の宅地化の時代にもそのまま川として残り、最後にどぶ川に蓋をされて暗渠化した、ということでしょう。暗渠になった後もそこは空間のままで残り、今では遊歩道と名前を変えて路地として残っているのです。

杉並の善福寺川北岸にある川跡を一つ紹介しましょう。
このグー地図を開いてみてください。
地図の真ん中あたりに、南北にくねくねと鎖線が走っています。この鎖線は、成田東一丁目と松ノ木一丁目との境界を示す線なのですが、同時に私が紹介しようとする川跡路地の位置をも示しています。この線に沿って歩くと、人がすれ違うのがやっとという狭くてじめじめした路地に入り込み、そしてその路地が延々とどこまでも続くのです。南の和田堀公園から北上した場合、五日市街道と交叉したあたりまで続き、そこで消滅しています。

ネットで検索したら、この川跡、善福寺川 リバーサイド Blog松ノ木支流という名称で紹介されていました。

日経新聞記事では、川跡の探し方をいくつか紹介しています。その一つは、過去の航空写真を見ると、川は黒い筋のように写っているので見つけることができるというものです。グー地図が便利だとしています。それでは上のグー地図をもう一回見てみましょう。この地図に「昭和22」「昭和38」というボタンがありますが、このボタンを押すと、その当時に撮影された航空写真に切り替わります。今回紹介した路地はとても細い川の跡なので、さすがにグー地図でも川として認識することは困難なようです。

ところで、村上春樹著「ねじまき鳥クリニクル」に路地が登場します。主人公の家のブロック塀の向こうにある路地で、長さは300m、主人公の僕が笠原メイに出会い、古い井戸を見つけたあの路地です。今は入り口も出口もありませんが、昔はあったとのことです。私はこの路地も、川跡であるに違いないと踏んでいるのですがどうでしょうか。
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玉川上水(7)

2010-04-13 20:59:49 | 杉並世田谷散歩
前号で小金井橋まで到着しました。今回はそこから続きます。


 
小金井橋から                       小金井橋から陣屋橋(右岸)

陣屋橋の説明板には以下の説明がありました。
「江戸時代前期の承応3年(1654)、江戸の水道である玉川上水が完成した後、武蔵野の原野の開発が急速に進み、享保年間(18世紀前半)ころに、82か村の新田村が誕生しました。この新田開発には、玉川上水からの分水が大きな役割を果たしました。この時、上水北側の関野新田に南武蔵野の開発を推進した幕府の陣屋(役宅)が置かれ、「武蔵野新田世話役」に登用された川崎平右衛門定孝の手代(下役)高木三郎兵衛が常駐していました。
この陣屋から南に真っ直ぐ小金井村方面に通じる道が「陣屋道」、玉川上水に架かる橋が「陣屋橋」です。今の橋は、昭和48年に新設されたものですが、元の陣屋橋は、ここから数十メートル下流にありました。
また、玉川上水両岸の小金井桜は、新田開発が行われた元文2年(1737)頃、幕府の明によって川崎平右衛門等が植えたものです。」

陣屋から北へ向かう広い道路で小金井桜まつりが行われていました。この道の突き当たりには、江戸東京たてもの園がある筈です。ウィキによると、墨田区にある東京都江戸東京博物館の分館ということで、30棟近くの建築物が展示されているようです。

陣屋橋から北方を望む

陣屋橋の下流には、玉川上水に架かる歩道橋があります。小金井公園入り口の前です。
左下の写真の左に「名勝 小金井桜」という石碑が見えます。玉川上水事典で小金井桜について調べると、上の陣屋橋の説明書きにも登場したように、「小金井桜は元文2年(1737)、武蔵野新田世話役であった川崎平右衛門定孝が幕命によって植えたといわれる。」とあります。
『小金井橋を中心に玉川上水の両岸6㌔にわたって、山桜約2000本を植えた。』
『その桜並木は江戸時代から関東随一の桜の名所として知られ、歌川広重の錦絵などで紹介され、人気は高まった。
嘉永年間には田無村名主・下田半兵衛によって大規模な補植が行われ明治16年(1883) には明治天皇が訪れ、その記念樹である 「行幸松」が海岸寺の山門前、玉川上水北側遊歩道にある。』
『山桜の寿命は50年から120年とされ、並木の欅で日当たりが悪化。五日市街道の排ガスの影響もあって、多くの桜は枯死あるいは老木化、いまや桜の名所にかつての面影はない。』
 
小金井公園歩道橋

歩道橋をすぎると、関野橋、梶野橋、新橋、あけぼの橋、くぬぎ橋、もみじ橋、境橋と続きます。
あけぼの橋の上から水面を見下ろすと、たくさんの鯉が群れています。橋の上から餌がまかれるのを待っている様子です。餌をあげる人が後を絶たないのでしょうね。
 
新橋                               曙橋から

境橋に到着です。
田和側上水と並行していた五日市街道は、ここから北東方向に向きを変えて玉川上水から離れます。その北東方向に左下写真のように緑地帯が見えます。これが千川上水の始まりです。玉川上水事典の千川上水によると、
『(千川上水は)玉川上水の完成から42年後の元禄9年(1696)に開削された。開削の目的は、湯島聖堂、上野の東叡山、小石川の白山御殿、浅草寺御殿への引水にあった。』とあります。
その後、何回も廃止・再開を繰り返したようです。最後は昭和41年(1966)まで使用していました。
『かつては、産業用水として、明治8年(1875)創業の王子製糸をはじめ、板橋浄水場にあった陸軍の火薬工場、王子村紙幣寮抄紙工場へ用水を利用。その外、水車による精米、小麦やそばの製粉、農業用水は20ヵ村に波及し水田面積100㌶、取水制限の際には、「番水約定」のもと、樋口には水争いを避けるため村役人も昼夜立ち会うのである。
平成元年(1989)高度下水処理水を日量1万㌧放流、水量の70㌫は善福寺川へ、30㌫は板橋に至り、流末は石神井川である。』
右下の写真で千川上水の始端に水が流れている様子が見られます。この水が、遠く板橋の先で石神井川まで流れ着いているのですね。
 
千川上水

以下次号
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