前号からの続きで、今回は境橋からです。

境橋からは、うど橋、独歩橋、桜橋と続きます。
独歩橋は、昭和44年に新設された橋で、この下流160mに「国木田独歩の石碑」があることにちなんで名付けられたようです。

独歩橋
桜橋は、玉川上水と武蔵境通りの交差点です。武蔵境通りを南下すると中央線の武蔵境駅に出ます。この桜橋の近くに、国木田独歩文学碑がひっそりと立っています。
石碑には、独歩の「武蔵野」六の冒頭部分が書かれています。
「今より三年前の夏のことであった。自分は或友と市中の寓居を出で、三崎町の停車場から境まで乗り、其処で下りて北へ真直に四五丁ゆくと桜橋といふ小さな橋がある、」
武蔵野 (岩波文庫)
から、この先をさらに引用します。
『それ(桜橋)を渡ると一軒の掛茶屋がある、この茶屋の婆さんが自分に向て、「今時分、何にしに来ただア」と問うたことがあった。自分は友と顔見合せて笑て、「散歩に来たのよ、ただ遊びに来たのだ」と答えると、婆さんも笑て、それも馬鹿にしたような笑いかたで、「桜は春咲くことを知ねえだね」と言った。そこで自分は夏の郊外の散歩のどんなに面白いかを婆さんの耳にも解るように話してみたが無駄であった。東京の人は呑気だという一語で消されてしまった。自分らは汗をふきふき、婆さんが剥いてくれる甜瓜を喰い、』
『茶屋を出て、自分らは、そろそろ小金井の堤を、水上の方へとのぼりはじめた。』(後略)
ここで三崎町の停車場とは、甲武鉄道(現在のJR中央線)の始発駅であった飯田町停車場(現在の飯田橋付近)を意味します。当時、国鉄の中央線ではなく、それも東京駅始発ではなく現在の飯田橋付近を始発としていたのですね。
電車を今の武蔵境駅で降り、そこから現在の武蔵境通りを北上して玉川上水の桜橋に到達しています。
玉川上水今昔の桜橋によると
「『武蔵野』には書かれてないが、独歩の日記『欺かざるの記』によると、桜橋を共に訪ねた相手は後に結婚する佐々城信子で、桜橋付近の林で熱い思いを打ち明けたと記されている。
現在もその林は土地所有者の厚意で『武蔵野市境山野公園:通称独歩の森』として往時の面影を留め一般にも公開されている。」
とあります。そうだったのですか。
「武蔵野」の文章はその後、
『ああその日の散歩がどんなに楽しかったろう。』と続き、玉川上水に沿って、真夏の武蔵野の風景を描いています。一緒に歩いた「或友」が恋人だったとは。
そうと知っていたら、桜橋周辺をもっと観察して写真を撮っておいたのに。

国木田独歩文学碑
取り敢えず、左下の写真は、広大な境浄水場の南西端にある正門で、桜橋の北東側に位置しています。

境浄水場北西の正門 左が境浄水場、右が玉川上水
境浄水場は、同じ水道施設とはいっても、隣接する玉川上水とは直接の関係がありません。境浄水場には村山貯水池から給水されます。村山貯水池への給水が玉川上水の最上流からなされているという点では関係しますが。

境浄水場の中

境浄水場 南東の南門 左が玉川上水
この大きさで「大橋」とは大げさですが・・・。案内板によると、江戸初期以降で現在の武蔵野市域内で最初に架けられた「新橋」「保谷橋」「大橋」の一つだそうです。

大橋 大橋から
ところで玉川上水事典の境浄水場によると、『境浄水場南門の玉川上水両サイドに見られる橋梁跡は、境浄水場への引込線跡で、また、浄水場はずれの遊歩道(公園)に見られる橋梁跡は戦闘機「隼」や「零戦」を生産した中島飛行機(株)への引込線跡である。』とあります。帰宅後に知りました。
前者については気付きませんでした。後者の橋梁跡については、工事中であったのを記憶しています。ちゃんと写真を撮っておきたかったです。工事中の説明では、橋脚を新築して玉川上水と交差する広い道路を新しく作るようでした。引き込み線跡を利用するのであれば用地買収が楽ですね。
地図で引き込み線跡を辿ったら、境浄水場の北方のNTT研究開発センタや武蔵野中央公園、住宅のあるあたりが中島飛行機の武蔵野工場跡のようです。富士重工業の社宅があるということで中島飛行機の痕跡が残っていました。
本日の旅も終わりに近づきます。
三鷹駅北西で上水が広い道路に斜めに交差するに際し、暗渠になります。

けやき橋手前の暗渠入り口 暗渠出口
そして、三鷹通りとの交差点がけやき橋(欅橋)です。けやき橋をすぎると、上水は右下写真、そして下段左写真のような水路を辿り、三鷹駅の手前で消えます。

けやき橋 三鷹駅手前

三鷹駅手前 三鷹駅前
続く

境橋からは、うど橋、独歩橋、桜橋と続きます。
独歩橋は、昭和44年に新設された橋で、この下流160mに「国木田独歩の石碑」があることにちなんで名付けられたようです。


独歩橋
桜橋は、玉川上水と武蔵境通りの交差点です。武蔵境通りを南下すると中央線の武蔵境駅に出ます。この桜橋の近くに、国木田独歩文学碑がひっそりと立っています。
石碑には、独歩の「武蔵野」六の冒頭部分が書かれています。
「今より三年前の夏のことであった。自分は或友と市中の寓居を出で、三崎町の停車場から境まで乗り、其処で下りて北へ真直に四五丁ゆくと桜橋といふ小さな橋がある、」
武蔵野 (岩波文庫)
『それ(桜橋)を渡ると一軒の掛茶屋がある、この茶屋の婆さんが自分に向て、「今時分、何にしに来ただア」と問うたことがあった。自分は友と顔見合せて笑て、「散歩に来たのよ、ただ遊びに来たのだ」と答えると、婆さんも笑て、それも馬鹿にしたような笑いかたで、「桜は春咲くことを知ねえだね」と言った。そこで自分は夏の郊外の散歩のどんなに面白いかを婆さんの耳にも解るように話してみたが無駄であった。東京の人は呑気だという一語で消されてしまった。自分らは汗をふきふき、婆さんが剥いてくれる甜瓜を喰い、』
『茶屋を出て、自分らは、そろそろ小金井の堤を、水上の方へとのぼりはじめた。』(後略)
ここで三崎町の停車場とは、甲武鉄道(現在のJR中央線)の始発駅であった飯田町停車場(現在の飯田橋付近)を意味します。当時、国鉄の中央線ではなく、それも東京駅始発ではなく現在の飯田橋付近を始発としていたのですね。
電車を今の武蔵境駅で降り、そこから現在の武蔵境通りを北上して玉川上水の桜橋に到達しています。
玉川上水今昔の桜橋によると
「『武蔵野』には書かれてないが、独歩の日記『欺かざるの記』によると、桜橋を共に訪ねた相手は後に結婚する佐々城信子で、桜橋付近の林で熱い思いを打ち明けたと記されている。
現在もその林は土地所有者の厚意で『武蔵野市境山野公園:通称独歩の森』として往時の面影を留め一般にも公開されている。」
とあります。そうだったのですか。
「武蔵野」の文章はその後、
『ああその日の散歩がどんなに楽しかったろう。』と続き、玉川上水に沿って、真夏の武蔵野の風景を描いています。一緒に歩いた「或友」が恋人だったとは。
そうと知っていたら、桜橋周辺をもっと観察して写真を撮っておいたのに。


国木田独歩文学碑
取り敢えず、左下の写真は、広大な境浄水場の南西端にある正門で、桜橋の北東側に位置しています。


境浄水場北西の正門 左が境浄水場、右が玉川上水
境浄水場は、同じ水道施設とはいっても、隣接する玉川上水とは直接の関係がありません。境浄水場には村山貯水池から給水されます。村山貯水池への給水が玉川上水の最上流からなされているという点では関係しますが。


境浄水場の中

境浄水場 南東の南門 左が玉川上水
この大きさで「大橋」とは大げさですが・・・。案内板によると、江戸初期以降で現在の武蔵野市域内で最初に架けられた「新橋」「保谷橋」「大橋」の一つだそうです。


大橋 大橋から
ところで玉川上水事典の境浄水場によると、『境浄水場南門の玉川上水両サイドに見られる橋梁跡は、境浄水場への引込線跡で、また、浄水場はずれの遊歩道(公園)に見られる橋梁跡は戦闘機「隼」や「零戦」を生産した中島飛行機(株)への引込線跡である。』とあります。帰宅後に知りました。
前者については気付きませんでした。後者の橋梁跡については、工事中であったのを記憶しています。ちゃんと写真を撮っておきたかったです。工事中の説明では、橋脚を新築して玉川上水と交差する広い道路を新しく作るようでした。引き込み線跡を利用するのであれば用地買収が楽ですね。
地図で引き込み線跡を辿ったら、境浄水場の北方のNTT研究開発センタや武蔵野中央公園、住宅のあるあたりが中島飛行機の武蔵野工場跡のようです。富士重工業の社宅があるということで中島飛行機の痕跡が残っていました。
本日の旅も終わりに近づきます。
三鷹駅北西で上水が広い道路に斜めに交差するに際し、暗渠になります。


けやき橋手前の暗渠入り口 暗渠出口
そして、三鷹通りとの交差点がけやき橋(欅橋)です。けやき橋をすぎると、上水は右下写真、そして下段左写真のような水路を辿り、三鷹駅の手前で消えます。


けやき橋 三鷹駅手前


三鷹駅手前 三鷹駅前
続く
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