goo blog サービス終了のお知らせ 

弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

玉川上水(6)

2010-04-11 11:29:02 | 杉並世田谷散歩
玉川上水を、その取水源である多摩川の羽村取水口から歩いて辿りはじめたのは1年半前です。

羽村から四谷大木戸までのルートにおいて、流れる水量が区間毎に変化します。羽村取水所から第3水門までは最大水量です。第3水門で大部分が分水して村山貯水池方面に地下水路で運ばれます。第3水門から小平監視所までは少なくはなりますが十分な水量が流れ、その全量が小平監視所から東村山浄水場に行ってしまいます。
小平監視所からは、排水を高度処理した水が放流されており、その水が東京久我山の浅間橋まで流れています。

羽村取水口から拝島までのルートを2008年11月に歩き()、拝島から西武国分寺線の鷹の台駅までのルートを今年2月に歩きました()。

羽村取水所から四谷までの全体の概略地図を以下に示します。

       玉川上水全体図

そしてこの4月3日、3回目として鷹の台駅から三鷹駅までのコースを歩いてきました。以下のルートです。今回のルートは、小平監視所で放流される下水高度処理水が流れている流域です。

    今回歩いたコース(クリックすると橋の名前が入った拡大図になります)

ちょうど桜の花が満開の時期であり、この週末を逃すと満開の桜を見ることができません。天気予報は晴れでしたが、残念ながら薄曇りで時折日が差す程度です。これでは桜のいい写真を撮ることは困難ですが、やむを得ません。

西武国分寺線を鷹の台駅で降りると、さっそく歩き始めました。
この付近で、玉川上水と並行して、玉川上水の左岸に新堀用水が流れています。前回鷹の台駅までのコースを歩いたときは新堀用水について知らなかったので、写真を1枚も撮っていないという失態でした。
そこでまず新堀用水からです。
鷹の台駅の東側、玉川上水の北側には、小平中央公園が位置しています。左下の写真は、玉川上水から小平中央公園方向を写した写真で、手前に見えるうさぎ橋は新堀用水に架かる橋です。右下は玉川上水の下流側を見た写真で、写真の右手が玉川上水、左手が新堀用水になります。
 
鷹の台近くの公園 手前は新堀用水にかかる橋    左が新堀用水・右が玉川上水

そして左下が新堀用水、右下が玉川上水です。
 
新堀用水               玉川上水

歩き始めてすぐ、玉川上水左岸に「玉川上水立坑」と書いた建物が出現します。扉には「列車通行中扉の開閉注意」と書かれています。もちろん回りに鉄道線路など見あたりません。後で調べたら、この地の地下を武蔵野線が走っているのですね。この建物の扉を開けると、武蔵野線の線路へ向かう立て坑が出現するのでしょう。
玉川上水立坑の北側には津田塾大学が隣接するのですが、歩いているときは気付きませんでした。

玉川上水立坑

しばらく行くと小川水衛所跡です。玉川上水事典の「水衛所」には
「昭和40年、淀橋浄水場が廃止された時、芥上げや水路監視を行う水衛所は、熊川、砂川、小川、境、久我山、和田堀、代々木(余水吐際)、四谷大木戸にあった。
水衛は水路の下流から上流に向かい、各水衛所間を受け持ち区域として毎月10回以上巡視することになっており、また上水路の各分水口樋口の鍵は、水衛が保管していた。」
と説明されています。
下の写真のグリッドのところにゴミが溜まり、それを上のデッキから道具を使って除去していたのでしょう。
 
          小川水衛所跡

小川水衛所跡の付近、玉川上水の北側に一橋大学のキャンパスがあるはずです。ここからは見えませんが。その証拠に、次に出現する橋の名前が「商大橋」となっています。
商大橋からは、大学評価・学位授与機構の敷地を見ることができます。
 
商大橋              大学評価・学位授与機構

商大橋の付近で、五日市街道が玉川上水右岸に沿って走るようになります。この先、喜平橋で五日市街道は玉川上水の右岸から左岸に位置を変え、その先の境橋で玉川上水から離れ、五日市街道は千川上水沿いに進みます。
商大橋の次が一位橋、そしてその先に西武多摩湖線の線路が交叉しています。西武多摩湖線の手前が桜橋です。
 
一位橋から桜橋                 桜橋から

桜橋からは、八左衛門橋、山屋橋、喜平橋と続きます。
 
八右衛門橋から


山家橋から喜平橋

喜平橋とは、もともとこの地の組頭だった喜兵衛さんの名を取って喜兵衛橋と呼ばれており、それが喜平橋に変わったと案内板にありました。
喜平橋から北西方向に向かう道が、警察学校への道です。その道は桜トンネルとなっており、今が見頃でした。

喜平橋から警察学校への道

喜平橋からは、小桜橋、茜屋橋、貫井橋、そして小金井橋と続きます。
このあたり、玉川上水の右岸の土手は桜街道となっています。

喜平橋から小桜橋

茜屋橋で玉川上水は新小金井街道と交叉します。
 
茜屋橋手前                 茜屋橋

 
小金井橋手前

小金井橋で玉川上水は小金井街道と交叉します。小金井街道を南下すると中央本線の武蔵小金井駅に至ります。

以下次号
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

玉川上水(5)

2010-03-07 10:56:30 | 杉並世田谷散歩
前回に続き、玉川上水沿いを歩きます。


多摩都市モノレールは、上北台というところを北端の駅とし、中央線の立川、京王線の高幡不動と交叉し、南端は多摩センターに達するモノレール路線です。上北台から2駅目が玉川上水駅で、西武拝島線の玉川上水駅と交叉しています。
  
モノレール 玉川上水駅          駅前広場の下を流れる玉川上水

今回の当初予定では、モノレールの玉川上水駅で終了にするつもりでした。拝島からの距離は6.9キロということです。しかしまだ時間は午後1時半、もう一区間歩けそうです。ということで、鷹の台までの4キロを歩くことにしました。

玉川上水駅をすぎてほどなく、小平監視所に到達します。
羽村取水所で取水され、第3水門で大部分の水が村山貯水池へ分水され、残りの水は延々とここまで流れてきました。しかしそれもここ小平監視所で終了です。ここまで流れてきた水道原水は、ここで落ち葉や空缶などのゴミが取り除かれた後、暗渠にて東村山浄水場へと送られています。つまり、小平監視所が現役上水路としての最終地点ということになるわけです。
 
小平監視所

小平監視所から下流側のいきさつについては、やはりこちらの説明が役立ちました。「小平監視所と東村山浄水場は、昭和38年(1963年)に建設されました。それ以来、玉川上水の水のほとんどが東村山浄水場へ送られているので、下流への流れは途絶えてしまいました。そして、その2年後には新宿の淀橋浄水場が廃止されたのです。水が涸れた上水堀は荒廃の一途をたどり、この役割を終えた緑地帯の多くは公園などに転用されていきました。しかし、付近住民からの玉川上水の復活を望む声が強く、東京都も昭和49年頃から玉川上水の復活を検討し始め、清流復活事業計画として具体化されていったのです。
 昭和61年8月、ついに清流が復活。昭島市にある多摩川上流処理場で、周辺の市や町から集めた家庭の雑排水や工場排水を高度処理した水を、約9㎞離れた小平監視所下流に導水ポンプで送り放流したのです。」
 
小平監視所下流からの放流

 
小平監視所下流                     小平監視所→西中島橋

野火止用水も、ここ小平監視所付近で分水され、ここから西武拝島線に沿って東北東方向に流れていくようです。地図を追うと、武蔵野線の新座駅近くまで、水路として描かれています。玉川上水の下流側と同様、野火止用水にも、処理水が放流されているそうです。

さて、玉川上水をさらに下流側に歩きます。
くぬぎ橋と寺橋との中間に設置されたトイレは、車いすでも使用可能なトイレでした。

上の写真は、玉川上水の左岸から撮したものです。トイレの手前に木の橋が見えます。この下を小さな水流が流れているのです。歩いているときは気にかけていなかったのですが、どうもこれは「新堀用水」と呼ばれる用水のようです。小平監視所で取水され、少なくとも鷹の台駅までについては玉川上水の左岸に沿ってずっと流れています。

小平監視所以降、玉川上水は土を掘削したままといった感じで、護岸工事がされずに土はだが見えています。現在はちょろちょろしか水が流れていませんが、徳川300年間、この水路には奔流が流れていたはずです。こんな水路で本当に300年間も保持されたのだろうかと驚嘆しました。しかし、逆にこちらの記事によると、この区間は水の供給が絶たれて以来、両岸側壁の崩壊が目立っているとのことです。この用水路の断面を満たして水が流れていた当時は、側壁が崩壊しなかったということでしょうか。
 
寺橋                         寺橋から

玉川上水は西武国分寺線の鉄橋に到達しました。
本日の予定はここまでです。西武国分寺線の鷹の台駅から西武線に乗り、国分寺経由で帰宅の途につきました。
 
西武国分寺線鉄橋                   西武国分寺線鷹の台駅

ところで、前回の記事の中で、西武立川駅の近くで玉川上水が暗渠になっている点について、戦時中に飛行場の滑走路を延長するために暗渠になった、ということを述べました。
さらに調べたところ、飛行場というのは、近くにある昭和飛行機工業という会社の飛行場であったようです。この会社は現在もすぐ近くの昭島市にあります。ウィキペディアによると、現在の業務は「社名の航空機内装備品のみならず、タンクローリーやバルク車などの特装車、給食カートや介護入浴装置などのライフサポート機器、ハニカム構造体などを手掛ける」とのことですが、もともと戦前にダグラスDC-3という旅客機の名機をライセンス生産する目的で設立されたようです。戦時中は海軍にDC-3を零式輸送機として430機製造したほか、九九艦爆や紫電改などもライセンス生産したようです。
青梅線の昭島駅は、昭和飛行機の従業員通勤のために新設された「昭和前駅」が発祥のようです。また、玉川上水沿いから見える昭和の森ゴルフコースは、もともと昭和飛行機の飛行場があったところで、現在も昭和飛行機が運営しています。

その6に続く。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

玉川上水(4)

2010-03-04 21:25:12 | 杉並世田谷散歩
前回に続き、玉川上水沿いを歩きます。


美堀橋と松中橋の間の区間で、玉川上水は一部区間が暗渠になっています。左下写真は上水が暗渠に入る部分です。そして暗渠である区間については、南側がゴルフ練習場、そして北側に広い空き地が広がります。空き地の向こうに西武立川駅が見えます(右下写真)。玉川上水の暗渠化といい、この広い空き地といい、何か意味がありそうです。ひょっとして、戦時中に飛行場か何かだったのか?
私の勘は当たりました。こちらに説明がありました。「玉川上水は美堀橋を越えたすぐ先で300m程の暗渠に入ります。これは戦時中、上水の南側にあった飛行場の滑走路を延長するため、上水に蓋をした名残と言われています。ここは西武立川駅からすぐの所で、当時の飛行場だった場所は現在はゴルフ場になっています。」ということでした。
  
暗渠へ                    西武立川駅


開渠へ

松中橋のすぐ下流に、砂川分水の取水口があります。現地の案内板によると、砂川分水は明暦3年(1657年)、柴崎分水は元文2年(1737年)の開通で、それぞれ砂川新田・柴崎村(現 立川市)の人びとに永い間生活・農業用水として利用されてきたそうです。
下の写真が玉川上水本流からの分水口です。
 
砂川用水分水

砂川用水は玉川上水と並行して流れています(左下写真)。この分水はしばらく行くと暗渠に隠れますが、五日市街道(この先の天王橋で玉川上水と交叉)に沿ってずっと流れ続けているそうです。それともうひとつ、南東方向に向かう分水があります(右下写真)。これは柴崎分水のようです。同じくこちらの説明によると、「現在も柴崎分水は昭和記念公園内を流れており、JR中央線を「懸け樋」で渡った後、甲州街道日野橋交差点付近の水田の灌漑用水として使われています。」ということです。
 
砂川分水  東へ                 柴崎分水 南東へ

 
一番橋→天王橋                  天王橋→稲荷橋

稲荷橋をすぎると、玉川上水は残堀川という川と交叉します。残堀川は、下の写真のように掘り下げられた河床を流れています。玉川上水はどのようにこの川と交叉しているのでしょうか。


現在の玉川上水は、残堀川の河床のさらに下を潜っているのです。
 
残堀川を潜る直前                   残堀川底を潜った下流側

現在の玉川上水と残堀川の関係はわかりました。それでは、江戸時代はどうだったのでしょうか。残堀川の河床を掘り下げたのは明治以降と考えられます。
やはりこちらに解がありました。「残堀川は玉川上水と交差する唯一の川で、かつては、「狭山池助水」として上水に合流していました。しかし、明治時代になって川が汚れてきたため改修工事が行われ、現在は残堀川の下を上水が潜っています。」ということです。
昔は、残堀川と玉川上水は交叉するのではなく、合流していたのですね。

 
新家橋から                  金比羅橋→宮の橋

玉川上水は、多摩都市モノレールと交叉する地点まで到達しました。

モノレール 玉川上水駅

以下次号
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

玉川上水(3)

2010-03-02 20:50:23 | 杉並世田谷散歩
玉川上水は、江戸時代初期に完成した上水道です。羽村取水所で多摩川から取水し、延々と武蔵野台地を流れて最後は四谷大木戸まで続いていました。この玉川上水沿いに歩こうと計画を立てたのは1年以上前でした。そして羽村取水所から拝島までの第1区間を歩いた様子を、08年12月に玉川上水(1)玉川上水(2)として記事にしました。
その後、なかなか先に進むチャンスがなかったのですが、この2月20日にやっと、次の区間を歩くことができました。

羽村取水所から四谷までの全体の概略地図を以下に示します。

       玉川上水全体図

今回歩いたのは、拝島から鷹の台(西武国分寺線)までの約11キロです。下の地図の区間です。より詳しくは例えば玉川上水散策地図を参照してください。


若干、前回の区間のおらさいをします。
羽村取水所から第3水門までは、ものすごい水量が流れています。しかし第3水門で、大部分の水は分水されて地下経由で村山貯水池に流れるので、第3水門以降はゆるやかな流れとなります。今回のスタート地である拝島付近は、そのようなゆるやかな、しかし一定の水量を保った流れとなっています。
 
取水堰直後の第2水門                  第3水門

拝島駅は、JRの青梅線、五日市線、八高線と、西武拝島線が集まるターミナル駅です。駅上から窓の外を見ると、JRと西武線の車輛が並んでいました。

拝島駅の上から北西方向 右は西武拝島線

まずは本日のスタートラインである日光橋に着きます。
日光橋の下流に平和橋があります。平和橋と並行して鉄道線路の鉄橋が架かっていました。何線だろうかと地図を調べたところ、どうも近くの米軍横田基地に続く線路のようでした。米軍専用の線路なのでしょうか。この鉄橋の隣の橋を「平和橋」と名付けたのは、米軍基地と関係があるのかもしれません。
 
日光橋→平和橋           米軍横田基地へ向かう線路の鉄橋(平和橋となり)

平和橋と次のこはけ橋との間に、下の写真のような堰がありました。堰の上流に分水の取水施設があるのかもしれません。
 
平和橋→こはけ橋

上の写真のさらに下流に、こちらは明確に分水施設を見つけることができました。
左下の写真は、右に玉川上水の本流が流れ、つつじ橋は分水経路の上をまたいでいます。右下の写真は、取水口の反対岸から取水口を見たところです。
こちらの説明によると、上の写真は拝島分水、下の写真は殿ヶ谷分水かもしれません。
 
分水とつつじ橋(平和橋→こはけ橋)

こはけ橋とふたみ橋の間で、西武拝島線の線路が玉川上水を渡ります。

西武拝島線の鉄橋(こはけ橋→ふたみ橋)

ちょうど梅の季節でした(左下写真)。
拝島上水橋から美堀橋を経て松中橋までの間、上水の南側は昭和の森ゴルフコースとなっています(右下写真)。
 
ふたみ橋→拝島上水橋(北側)          昭和の森ゴルフコース(南側)


長くなったので次号に続きます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2010年初詣

2010-01-01 17:08:45 | 杉並世田谷散歩
明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

例年初詣は、杉並の大宮八幡宮と決まっていました。今年は、2ヶ月前に孫が生まれ、その孫を連れての初詣なので、近くの和泉熊野神社を選びました。わが家の氏神様がこの熊野神社ですから、その点では妥当な選択です。
和泉熊野神社は神田川沿いにあります。
昼すぎに参拝すると、普段は閑散とした境内ですが、本日は違っていて、大勢の参拝客が行列を作っていました。
 

ここ和泉熊野神社のすぐ近く、同じ神田川沿いに貴船神社があります。ごくごく小さな神社で、小さな池が配置されています。昔はこの池に泉が湧いており、地名「和泉」はこの泉から来ています。明治以降まで泉は湧いていたようですが、今では涸れてしまいました。
日照りが続くとこの泉で雨乞いをしたそうです。

和泉熊野神社のすぐ近くの同じ神田川沿いには龍光寺というお寺があります。私は、貴船神社の泉で雨乞いをしたときに竜が昇天したことにちなんで名付けられたと記憶していたのですが、泉湧山医王院 龍光寺によるとちょっと違っていて、「泉湧山」は貴船神社の泉にちなんでいますが、「竜」については、神田川の源である井の頭池に住む竜が神田川を下り、この近くで光を放って昇天したことに由来するらしいです。

p.s.
和泉熊野神社の本殿には、竜の彫刻がされていました。この竜も、貴船神社あるいは龍光寺に伝わる竜の伝説と関係があるのでしょうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

地図記号の変遷

2009-04-02 21:26:19 | 杉並世田谷散歩
最近のテレビのクイズ番組で、「“畑”の地図記号は何か」という問題がありました。それを見ながら私は「畑は“ ”(空白)だよ」と反応したのですが、それは誤りであり、正解は“v”でした。

何故私は間違えたのか。

私が若かった頃と現在とで、地図記号に変遷があったのです。こちらの情報によると、“畑”の地図記号は当初(空白)であったものが、昭和40年に“v”に変更になったようです。

私は中学生時代、50年近く前ですが、山岳部に所属していまして、地図としては当時の地理調査所(現在の国土地理院)が発行する五万分の一地形図を用いていました。そのときの記憶が鮮明なため、現在でも「畑は空白」と覚えていたのです。

何故、昔は「畑は空白」だったのか。ウィキペディアに答えがありました。
「日本における近代の地図製作は、明治時代に陸軍参謀本部によって始められた。そのため、軍事行動に関係する事物について詳細な地図記号化が行われている。例えば、軍事行動に支障が生じない「空き地」と「畑」については、区別がなされておらず、記号も設定されていなかった。」

なるほど。納得です。
私が、国木田独歩「武蔵野」を読み解く上で用いた明治20年地図(古地図史料出版株式会社発行)は陸地測量部が作成したものです。
国土地理院の沿革を紐解くと(ウィキペディア)、「1884年(明治17年)参謀本部の地図課・測量課が測量局へと拡充され、さらに1888年(明治21年)5月、参謀本部の本部長直属の独立官庁である陸地測量部となり、以後1945年(昭和20年)の終戦時まで続いた。
終戦に伴い陸地測量部は消滅し昭和20年9月1日付けで内務省地理調査所が新たに発足、建設省地理調査所を経て、1960年(昭和35年)に現在の“国土地理院”となった」ようです。
つまり、明治20年地図は陸軍の陸地測量部が作成したものでした。

地図の余白には地図記号一覧が記載されています。中学時代に慣れ親しんだ五万分の一地形図に書かれた地図記号一覧では、一番目立つところに“堡塁”の地図記号が書かれていたように記憶しています。まさに、陸上戦闘で兵士が身を隠すために最重要の構築物が堡塁だったためでしょうか。

当ブログの「武蔵野」関連記事()で明治20年地図(古地図史料出版株式会社発行)の一部をコピーして使わしていただいておりますが、本日、古地図史料出版株式会社さんから使用許諾のご連絡をいただきました。まことにありがとうございます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国木田独歩「武蔵野」(2)

2009-03-29 21:19:27 | 杉並世田谷散歩
前回は、明治29年に国木田独歩が渋谷に住んでいた頃の、渋谷界隈の状況を調べてみました。ここでは引き続いて、独歩自身が「武蔵野 (岩波文庫)」の中で描いている武蔵野の様子についてたどってみます。

こんな時代の武蔵野ですから、現在われわれが杉並・世田谷を散策して見ることのできる景色とは全く別物であることはわかります。
国木田独歩がいう武蔵野の範囲は広いです。東は亀戸のあたりまで、西は立川から多摩川のあたりまでを含めています。この中にある東京の街中は除外します。しかし町外れは決して抹殺してはならないとします。ただし、彼が言う町外れは渋谷の道玄坂、早稲田の鬼子母神、新宿、白金、とありますから、現代の東京における町外れとは全く別の場所です。


東京周辺の土地を2種類に分けるとしたら、私は台地部と平野部に分けます。
平野部とは、川の水面レベルとほぼ等しい高さの平地が広がる地域で、東京近郊であれば隅田川、荒川によって形成された地域です。神田川の下流に広がる神田の界隈もこの範疇に入ります。川による浸食と、洪水が運んできた堆積物で形成された平野です。
台地部は、平坦なのですがその標高は平野部よりも高く、そこを川が流れると川によって土地が侵食され、川が流れる流域の標高は平坦な台地の標高よりも低くなります。その結果、平坦な台地部と、川が流れる谷部とが形成され、台地部と谷部の境が坂になり、坂が多い地形となります。
東京でいうと、京浜東北線(上野から北)の線路が、ちょうど台地部と平野部との境界になります。京浜東北線の東側が平野部、西側が台地部です。従って、京浜東北線の西側は谷部が多く、坂が多い地形となっています。
杉並区でいえば、神田川と善福寺川の流域が谷を形成し、それ以外の部分が平坦な台地部です。台地部は水が豊富ではないので、昔だったら畑でしょう。水田は谷部の川岸に形成されたはずです。

そのような見方で独歩の「武蔵野」を読みます。
「武蔵野には決して禿山はない。しかし大洋のうねりのように高低起伏している。それも外見には一面の平原のようで、むしろ高台の処々が低く窪んで小さな浅い谷をなしているといった方が適当であろう。この谷の底は大概水田である。畑はおもに高台にある、高台は林と畑とで様々の区画をなしている。畑は即ち野である。されば林とても数里にわたるものなく否、恐らく一里にわたるものもあるまい、畑とても一眸数里に続くものはなく一座の林の周囲は畑、一頃の畑の三方は林、というような具合で、農家がその間に散在して更にこれを分割している。即ち野やら林やら、ただ乱雑に入り組んでいて、忽ち林に入るかと思えば、忽ち野に出るというような風である。それがまた実に武蔵野に一種の特色を与えていて、ここに自然あり、ここに生活あり、北海道のような自然そのままの大原野大森林とは異なっていて、その趣も特異である。」

まさに、平坦な台地部と、窪んだ谷部とで形成される武蔵野の様子が示されています。
そして、武蔵野のもうひとつの特徴が、林と畑です。

下の地図は、古地図史料出版株式会社「東京近傍図(1/2万)七面組 明治二十年作 陸地測量部作」から、杉並区の神田川と善福寺川が合流する手前あたりを抜き出したものです。

古地図史料出版株式会社「東京近傍図(1/2万)七面組 明治二十年作」から

土地利用の地図記号については、以下のように解釈しました。地図の「空白」部分は畑です。

この地図からも、水田は神田川や善福寺川の流域(窪地・谷部)に限られることがわかります。そして谷部以外の平坦な台地部については、畑(地図記号なし)と雑木林が乱雑に入り組んでいる状況です。
まさに、独歩が描いた武蔵野の状況と等しい姿が現れています。

独歩の上記の文章を頭に置きながら杉並・世田谷のうねうねした路を歩くと、明治時代にはこの界隈が林と畑とが入り交じった土地であっただろうということを頭の中に思い描くことができます。現実には道の両側に果てしなく家が建ちならんでいるのですが。
しかしときどき、独歩の頃から繁っていたであろうと思われる巨大な古木に遭遇することがあります。

なお、古地図史料出版株式会社発行の地図の一部を掲載する件については、古地図史料出版株式会社殿に許可を得るための問い合わせをしているところです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国木田独歩「武蔵野」

2009-03-26 21:04:51 | 杉並世田谷散歩
私は東京杉並に住み、その周辺の散策を一つの趣味としているのですが、この界隈は“武蔵野”と呼べるはずで、そうとすれば国木田独歩の「武蔵野」と何らかの関係があるかもしれません。
その「武蔵野」、大昔に読んだような気もするのですが全く忘却しています。そこで再度読んでみました。
武蔵野 (岩波文庫)
国木田 独歩
岩波書店

このアイテムの詳細を見る

読んで分かったのですが、書籍「武蔵野」というのは、初期の作品18編を収めた国木田独歩自選の短編集を指すのだそうです。18編のうちの第1編が短編「武蔵野」でもあります。独歩26歳から5年間の作品が収録されています。

独歩は1896(明治29年)に半年ほど、豊多摩郡渋谷村上渋谷154番地(東京都渋谷区宇田川町(goo地図)。NHK放送センターの近く)に住んでいました。25歳の頃です。
私は、古地図史料出版株式会社が発行している「東京近傍図(1/2万)七面組 明治二十年作 陸地測量部作」を持っています。この地図で独歩の住まいを探してみましょう。図面中の青い線は、川の部分を私がなぞったものです。

  古地図史料出版株式会社「東京近傍図(1/2万)七面組」から

当時、独歩宅を初めて訪れた田山花袋が書いたものが、その頃の渋谷周辺の面影をよく表しています。下の文章中に私が記した①~⑤を、上記地図(拡大図の方)の中から探しだしてみました。当たっているかどうかわかりませんが。

「渋谷の通①を野に出ると、駒場に通ずる大きな路②が楢林について曲がっていて、向こうに野川のうねねうと田圃の中を流れているのが見え、その此方の下流には、水車③がかかっていて頻りに動いているのが見えた。地平線は鮮やかに晴れて、武蔵野に特有な林を持った低い丘がそれからそれへと続いて眺められた。私たちは水車③の傍らの土橋④を渡って、茶畑や大根畑に沿って歩いた。(中略)
少し行くと、はたして牛の5、6頭がごろごろしている牛乳屋があった。(中略)
路⑤はだらだらと細くその丘の上へと登っていった。斜草地、目もさめるような紅葉、畠の黒い土にくっきりと鮮やかな菊の一叢二叢、青々とした菜畠-ふと丘の上の家の前に、若い上品な色の白い痩せぎすな青年がじっと此方を見て立っているのを私たちは認めた。
「国木田君は此方ですか。」
「僕が国木田。」」

今だったら、渋谷の道玄坂下から東急ハンズの前を通ってNHK放送センターに至る繁華街です。ここが明治30年頃には、田圃と畠と水車小屋が点在する田園地帯だったと言うことになります。

まずは、独歩が住んでいた頃の渋谷の景色について、田山花袋の筆を借りて確認しました。
次回は、独歩が見た武蔵野の風景について書いてみます。

なお、昔の地図記号についてこちらで調べたところ、上記地図の③の記号は「工場」なのです。水車は微妙に異なる別の記号です。しかし、明治20年地図の全体を見ても、工場があるべきところに「工場」記号は記されておらず、③の記号は必ず川沿いにあります。ということで、この地図では③の地図記号が「水車」を表しているのではないかと推測できます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

江戸消防記念会第九区

2009-02-19 20:56:26 | 杉並世田谷散歩
このブログに検索でやって来られる検索ワードを調べていたら、あるとき「江戸消防記念会第九区」との検索ワードが見つかりました。

江戸消防記念会は、江戸時代から続く町火消の伝統を受け継ぐ方々の団体で、主に鳶の職人さんたちが担っていると思います。
江戸消防記念会の組織を見ると、第九区は「第9区(10)中野・杉並両区全部、新宿区の1部」とあります。
第九区に属する一番組から十番組までの纏(まとい)については、以前紹介したように、杉並区堀ノ内の妙法寺にある石碑(左下写真)、あるいは八番組組頭のお宅で見せていただいた衝立の図柄(右下写真)で明らかです
  

さて、グーグルで「江戸消防記念会第九区」で検索するとどのようなサイトがヒットするのでしょうか。
当ブログのこのシリーズが2ページ目に挙がっていました。

興味深いサイトが見つかりました。石原のぶてる衆議院議員のサイトです。
バックナンバーの2008年03月02日:江戸消防記念会第九区七番組(動画)が、目的とする映像です。
どうも七番組が、石原議員の地盤に近いようです。その七番組の組頭が新しく就任するということで、その披露が同じ杉並区の大宮八幡で開かれ、そのときの様子を撮影したのが上の動画です。
町火消と言えば纏と半纏、それに木遣り、上の映像ではその木遣りの様子も聞くことができます。
私が子どもの頃は、近所で行われた消防の出初式で梯子乗りを見た憶えがあります。最近は見ませんね。東京消防庁の出初式へ行くと、今でも見られるようです(動画)。

ところで石原議員のサイト、のぶてる議員本人の発言よりも、「妻の目」が面白そうでした。のぶてる議員の奥様が書かれています。最新の1月記事は、ウォーキングで体重が3キロ減った話です。去年11月記事では、総選挙がありそうでなさそうな毎日を、議員の奥さんがどのように過ごしているかを書かれています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

目青不動、豪徳寺、そして松陰神社

2009-01-11 10:25:58 | 杉並世田谷散歩
1月10日、本日は知人のS野氏とともに世田谷散策に出かけました。
前日夜の大雨は一応予報通り朝には止んでいましたが、雲が多めです。しかし昼過ぎには大方快晴に近くなりました。

12時に三軒茶屋駅で落ち合い、まずは近くの蕎麦屋で腹ごしらえです。
そして目青不動にお詣りしました。
  
目青不動 不動堂           目青不動尊

ご本尊は暗くて写真にならないので、ご本尊の手前にあった絵を撮してきました。
以前書いたように、サイトによると、
「寛永年間の中旬、三代将軍徳川家光が天海大僧正の具申をうけ江戸の鎮護と天下泰平を祈願して、江戸市中の周囲五つの方角の不動尊を選んで割り当てた「東都五色不動【五眼不動】(目白、目赤、目黒、目青、目黄)」のひとつである。
五色とは密教の陰陽五行説に由来し重んじられた青・白・赤・黒・黄でそれぞれ五色は東・西・南・北・中央を表している。
そして、この五色不動の位置を線で結んだ線の内側を、江戸の内府と呼ばれた。しかしながら現在の住所は、明治以降、廃寺、統合などで不動尊が移動しているので本来の結界の役を失ったといってよい。」
とあります。

上のサイトにおいて、ここ目青不動については、
「当初不動尊は港区麻布谷町(現:六本木)勧行寺にあったが廃寺となり明治15年青山南町「教学院」に移転、その後同41年この地に移り現在にいたる。」
と説明されています。

続いて、世田谷線に乗って上町駅で降ります。
上町駅から南に下ると、世田谷1-29-18に代官屋敷があります。
  
世田谷代官屋敷 表門          母屋

江戸時代に井伊家の代官が住んだ家ということで、左が表門、右が母屋(約70坪)で、いずれも萱葺きです。江戸中期の建築とのことです。
表門に掲げられた説明書によると
「江戸時代の初め、大場氏は彦根井伊家領世田谷(2300石余)の代官職を務め、明治維新に至るまで世襲した」とあります。
  
世田谷代官屋敷  母屋内部

代官屋敷から上町駅に戻り、さらに北にのぼると世田谷城址公園です。以前こちらに詳しく書きました。

世田谷城址公園

世田谷城址公園と隣り合わせに豪徳寺があります。
日本大百科全書で豪徳寺を引くと、以下の主旨の記事があります。
「1480年吉良左京太夫忠政が、伯母の弘徳院の菩提のために建立し、臨済宗に属した。1584年門庵宗関が曹洞宗に改め、中興開山となった。井伊直孝が当地に住んでからはその菩提所となり、1659年直孝の法名によって豪徳寺と改称。寺内に直孝の墓碑がある。」

戦国時代、世田谷城は吉良氏の城であり、今の豪徳寺のあたりが城の中心であったとのことですから、豪徳寺の建立者が吉良氏であることはうなずけます。
また、江戸時代に世田谷のこの一帯は井伊家の所領であり、豪徳寺は井伊家の菩提寺になりました。
  
豪徳寺参道         豪徳寺山門

  
豪徳寺仏殿             豪徳寺本堂

以前、Wikipediaで調べたところ、豪徳寺は招き猫発祥の地と伝えられていることを知りました。井伊家二代目の井伊直孝が猫により門内に招き入れられ、雷雨を避け、和尚の法談を聞くことができたことを大いに喜び、後に井伊家御菩提所としたというものです(Wikipediaより)。
今回、仏殿と井伊直弼墓所との間に、招き猫を奉納するお堂を見てきました。
  
       豪徳寺 招き猫
豪徳寺の招き猫は小判を持っていないということですが、なるほど写真では持っていないですね。

井伊直弼墓

井伊直弼の墓には、おばあちゃんの集団が参っていました。話しているのを聞くと、篤姫の関係でやって来たようです。篤姫人気は、井伊直弼にも及んでいたのですね。

豪徳寺拝観が終わり、次は松陰神社に向かいます。途中まで烏山川緑道をたどり、国士舘大学の前を通って松陰神社近くに至りました。
今回、S野さんに教えてもらって知ったのですが、松陰神社のすぐ隣に桂太郎の墓所があったのですね。これは聞かなかったら知らずに通り過ぎてしまいます。ウィキペディアには「桂自身の遺言により、この地に埋葬された。」と記されています。
  
        桂太郎 墓所

  
松陰神社            松下村塾レプリカ内部


吉田松陰の墓

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする