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弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

2016初詣(2)

2016-01-04 20:37:36 | 杉並世田谷散歩
本年の初詣は、先日2016年初詣・大國魂神社に書いたとおり、1月2日に府中の大國魂神社に詣でました。そのとき、昨年のお守りや破魔矢などをお焚き上げで納めるのを忘れていました。
1月4日、事務所は定休日ですが、仕事がたて込んでいたので休日出勤と相成りました。そこで、出勤の途上で、わが家の氏神である和泉熊野神社に詣で、お焚き上げを納めてくることにしました。

《和泉熊野神社》
和泉熊野神社は、神田川沿いにあります。神田川と井の頭通りの交点からほんの少し下流に進んだところです。
 

 

和泉熊野神社はウィキによると、
『社伝によれば、文永4年(1267年)に紀州の熊野神社の分霊を祀ったのが当神社の創建である。』
とのことです。

勤務する事務所は荻窪駅の近くであり、昼休みに歩いて巡れるご近所には3つの神社があります。4日の昼休み、これら3つの神社もお参りしてきました。

《天沼八幡神社》
 

 

天沼八幡神社はウィキによると、
『旧天沼村字中谷戸の鎮守で天正年間(1573年 - 1591年)の創建と伝えられている。』
とあります。

境内ではちょうど、巫女さんと小さな子供が楽しそうにお話ししていました(下写真)。
 

《天沼熊野神社》
 

 

天沼熊野神社は、荻窪駅からは一番遠く、北東方向にあります。ウィキによると、
『社伝によれば神護景雲2年(768年)に東海道巡察使が武蔵国に来たときに、氏神を勧請し別当を置いたのがはじまりと伝えられている。また別の説では、元弘3年(1333年)に新田義貞が北条高時を討つために鎌倉へ軍を進める途中、当地に布陣し、社殿を創設したとも伝えられている。』
とあります。

 
本殿の左に大きな切り株が鎮座しています。ウィキには、『境内には、直径2mにも及ぶ大杉の切株がある。これは社伝によれば、この大杉は新田義貞がこの地に陣をしいた際、戦勝を祈願して手植えしたものと伝えられている。近隣の古老達はこの杉を『心願成就の杉』などと呼び大切にしてきたが、昭和17年(1942年)に枯死したため伐採され、今では切り株のみが残っている。』と記されています。

《荻窪白山神社》
荻窪駅の北側、JRと平行に走る商店街は「白山通り」と名付けられています。その名の由来は、この商店街の西にある白山神社です。
  
入口の鳥居をくぐると(左上写真)、北に向かって木々の下を参道が延々と続きます(右上写真)。やっと本殿が見えてきました(下写真)。
 

 

荻窪白山神社はウィキによると、
『旧下荻窪村の鎮守。当神社の創建は、社伝によると文明年間(1469年~1486年)に関東管領上杉顕定の家来中田加賀守が、屋敷内に五社権現社を奉齋したのにはじまる。』
とあります。

こうして、1月2日の大國魂神社に続き、1月4日には和泉熊野神社、天沼八幡神社、天沼熊野神社、荻窪白山神社を巡り、お参りしてきました。
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荻窪・衎(かん)芸館

2015-12-29 23:10:27 | 杉並世田谷散歩
荻窪駅から歩いて10分足らずの所に、杉並区中央図書館があります。1ヶ月ちょっと前のことです。職場の昼休み、図書館に本を返しに行った帰り、図書館から荻窪駅方面に歩いて直ぐの所に、変わった建物と看板を見つけました(下写真)。
 
小さくて目立たない看板には、「衎芸館(かんげいかん)」とあります。家の前には衎芸館の説明が小さな文字で書かれています(左下写真)。
  
近寄って説明を読んでいたところ、通りかかった女性に声をかけられました。後からわかったのですが、衎芸館のお隣に住まわれている衎芸館館長の鎌田さんでした。この衎芸館について説明をしてくださいました。
館長はとても気さくな方で、道ばたでの立ち話で私が「私もピアノを習っています。持ち曲はトロイメライとベートーベン月光1楽章です」といったお話をした所、「ちょっと見ていく?」「弾いてみる?」と声をかけていただき、わざわざ錠を開けてホールの中に案内してくださったのです。
  
ホール

ホールにはグランドピアノが2台あります。そのうちの1台が、フランスのプレイエルというピアノメーカーが作った貴重なピアノなのだそうです。かん芸館のサイトには、プレイエルのピアノについての説明が載っています。
下の写真がプレイエルです。
 

私が入れていただいたとき、プレイエルは部屋の隅に片付けられていましたが、館長はわざわざ弾けるように移動してくださいました。
私は遠慮することなく、そのプレイエルを弾いてしまいました。
トロイメライと月光の楽譜1行分を弾きましたが、突然なのでうまく弾けません。館長に「もう1回トロイメライを弾いて」と言われ、再度弾き始めると、今度はスムーズです。結局、最後まで弾いてしまいました。

私は、西荻窪の大城先生にピアノを習い始めて6年目になります。決して音楽好きでもないのに何でピアノを習っているのだろう、と自分でも不思議に思っているのですが、ピアノをそれなりに弾けるようになっているからこそ、今回のような出会いが生まれたのだ、と思うと、“ピアノを習っていて良かった”とつくづく思います。

かん芸館のホールでは常時いろいろの催し物が開催されているようです。
私は12月22日の13時、ここで開かれた「西津啓子ピアノコンサート Music Garden 第52回」鑑賞に出かけました。今回の写真はすべてこのとき撮影したものです。

開場は12時45分ですが、12時半には開場に到着しました。開場までのしばらく、付近を散策しました。
衎芸館の下をくぐって駐車場の向こうまで行くと、衎芸館ホールの出窓が見えます(下写真)。
 

衎芸館のすぐ隣は、以前このブログで紹介した読書の森公園です(下写真)。写真の左、木々の向こうに、衎芸館ホールの出窓が確認できます。
 
上写真の左下、ベビーカーの近くに小さな男の子がいます。お母さんがベンチに休み、男の子がひとりで走り回っています。私が近づくと、人なつっこくいろいろお話ししてくれました。しばらく一緒に公園内を走り回り、バイバイしてお別れしました。

西津啓子さんはピアニストで、ご自身のサイトによると、毎月第4火曜日に衎芸館でピアノコンサートを開催されているというとです。今回コンサートの写真もさっそくアップされていました。

衎芸館での西津啓子さんのコンサート、今回が52回ということで、連綿と続いてきています。ところが、演奏が終わった後のご説明で、「衎芸館でのコンサートは今回が最後です」とのアナウンスがありました。たまたま私がはじめて参加した会が、最後の会だった、ということになります。一体何があったのでしょうか。

この衎芸館のことを、私のピアノの先生である西荻窪の大城先生にご紹介したところ、「以前利用したことがある」とのことでした。ただし、現在は、大城先生のレッスンの拠点は葛西で、生徒さんの大部分は葛西近郊の人たちなので、なかなか荻窪で発表会を開くのは難しそうです。
一方で、先日12月20日に西葛西で開かれたピアノ・声楽合同発表会の後、生徒さんのひとりが「プレイエルを弾きたい!」と言っていたので、衎芸館での発表会が実現するかもしれません。
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井の頭線土手崩落

2015-12-25 23:26:14 | 杉並世田谷散歩
井の頭線の明大前駅と永福町駅の間、神田川が交差するあたりですが、井の頭線の線路と平行に延びる道路は私の通勤往復の徒歩経路になっています。

神田川にかかる橋からちょっと永福町よりのところ、もともと神田川の河原ですから、この部分は井の頭線の線路が地面よりも高く、土手の上に線路が走っています。道路と土手の橋との間にせいぜい2~3mの空き地があるのですが、ここで住宅の建設が始まりました。
今月21日頃からでしょうか、おかしな土木工事が始まりました。住宅建設予定の土地で、地面を掘り下げ始めたのです。それも、土手の端にある土留めのコンクリート壁直近まで掘り下げ、土留めコンクリート壁のところまで深さ2m前後、切り込まれました。
線路の土手直近をこんなに掘り下げて、線路は沈まないのだろうか。私はびっくりしながら、毎日眺めつつその場所を徒歩通過していました。

そして23日の夕刻です。その日は休日出勤しており、夜になって帰宅途中にその場所を徒歩で通過したのですが、何やら大勢で土木工事を行っています。その様子を一目見て、私はすべてを察知しました。あの掘り下げていた穴が原因で線路の土手が崩落していたのです(下写真)。これは大変なことになった。翌朝には目隠しが張り巡らされるでしょう。その前に写真を撮っておこうと、一度帰宅して夕食をとり、そのあとにカメラを持って現場に引き返しました。

上の写真は、線路の北側から現場を撮影したものです。
線路に平行に設置されたコンクリート柵が、手前側に倒れかかっているのが見えます。この柵が、この日の朝には直線状に設置されていたのです。倒れかかった分だけ、こちら側に傾き、まさにクレーン車で土嚢を積み上げている部分が、土手の崩落部分に当たります。
柵の手前側は土が見えますが、この日の朝はこの部分が2m程度の深さの穴になっていたのです。
土手の上には鉄道のスタッフがおり、こちら側を走る渋谷方面行きの電車は徐行して通過していきます。

翌朝、まずは井の頭線が走っていることを確かめた上で、念のためにカメラを所持して家を出発しました。現場にはまだ、目隠しのフェンスが設置されていませんでした。下の写真が、土手崩落現場です。青色シートでカバーされている部分が、崩落して開口した土手に土嚢を積み上げた部分です。


下の2枚の写真は、永福町側から明大前側に向かって撮った写真です。崩落現場の直ぐ上を、渋谷方面行きの井の頭線が走っています。本日はさほど徐行していないようです。
 
道路と土手との間の平地(現在は土が露出している部分)が、住宅建設予定地でした。こんなに狭い土地で、直ぐ横の土手の上を電車がひっきりなしに通過する場所に、一体どのような住宅を建てる予定だったのでしょうか。こんな狭い土地に建てるのに、はたして2mを掘り下げる必要はあったのでしょうか。

私は崩落前、土手の直近まで地面が掘り下げられているのを見て、線路の土手直近をこんなに掘り下げて大丈夫なのだろうか、とまずは心配しました。しかし、長年の経験で、大丈夫だとの確信があるのだろう。そうに違いない、と考えざるを得ません。鉄道会社が工事を許可しているのですから。
しかし今にして思うと、この工事は鉄道会社の許可を得ずに行ったのかもしれない、と思ってます。

現在は現場に目隠しのフェンスが張り巡らされているので、知らずに歩く人には何のことかわからないことでしょう。
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秋の太田黒公園(2)

2015-12-10 20:50:18 | 杉並世田谷散歩
前回」に引き続き、その後撮影した太田黒公園の様子を紹介します。

《12月9日》






























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秋の太田黒公園(1)

2015-12-05 20:36:17 | 杉並世田谷散歩
今年の夏、7月13日に訪問した太田黒公園については、「荻窪~太田黒公園」で紹介しました。
下の地図、中央の緑色のところが太田黒公園です。荻窪駅は左上の端です。


現在、太田黒公園は紅葉・黄葉の真っ盛りです。職場の昼休み、何度か太田黒公園を訪れて写真を撮ってきたので、現時点での作品を紹介します。
1週間空けて訪問すると、木々の様子がすっかり変わっているのには驚かされます。

《11月21日》

最初に真っ赤に色づいたのはこの木でした。この日はあいにくの曇り日でしたが、晴れたらすばらしい色彩になったことでしょう。残念ながら、このあとに訪れたときにはすでに散っていました。

《11月27日》


《12月4日》

やっと銀杏が黄色に染まりました。








上の写真、公園の中央に立っている左側の木は、まだ一部の葉が赤くなっているのみです。あとしばらくすると、この木のすべての葉が真っ赤に染まるのでしょう。またその写真が撮れたらご報告します。







《12月5日》




明日12月6日までの約1週間、太田黒公園は夜の6時から8時まで(土日は9時まで)ライトアップしているとのことでした。残念ながら本年は夜の訪問はできませんでした。来年の楽しみとしておきます。

前回」に引き続き、その後撮影した太田黒公園の様子を紹介します。">続く
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桃園川源流

2015-08-23 21:50:11 | 杉並世田谷散歩
先日、このブログの「荻窪_教会通り界隈」記事で、天沼弁天池について紹介しました。その中で、昔は弁天池の湧き水が桃園川の源流であった、と書きました。

本日は、その桃園川について書きます。
私が歩いて回ったのは、荻窪駅近くの職場から、昼休みの時間内に歩き回れる範囲に限定されます。そのため、桃園川のほんの源流しか回っていません。最も遠くは天沼熊野神社付近までです。

ウィキペディアによると、桃園川(ももぞのがわ)は、東京都杉並区および中野区を流れる河川で、全区間暗渠化されています。中野区内では「中野川」とも呼ばれるこのこと。

『東京都杉並区の天沼弁天社内にあった弁天池に源を発し1.5kmほど東へ流れる。中杉通りを越えた後に南下、杉並区立けやき公園のところで中央線より南に流れ、そこから東へ転じ、環状七号線を越えたところからはほぼ大久保通りと併走する形で中野区を東へ横断する。中野区と新宿区の境界にある末広橋脇で神田川に合流する。』
『元々桃園川は水量が少なかったため、江戸時代の1707年(宝永4年)から練馬区関町南付近で千川上水からの分水を受けていた。その水は青梅街道沿いに流れた後、荻窪駅前のりそな銀行荻窪支店東側の地点から北への水路を通り、桃園川に流れていた。』


上はgoo地図、下は明治20年地図です。

今回も、古地図史料出版株式会社が発行している「東京近傍図(1/2万)七面組 明治二十年作 陸地測量部作」から、桃園川源流付近を上に示します。ピンクはJR荻窪駅、青は桃園川源流で、いずれも私が塗ったものです。
左端中程から右下に向かう道路が青梅街道です。
明治20年地図によると、桃園川源流は二股に分かれています。八幡祠の左を北西に向かう源流が、天沼弁天池に発する源流です。上のgoo地図で「区立郷土博物館分館」と記載されている緑の部分が、現在の弁天池公園です。
そして、明治20年地図ので「天沼村」の文字の上を西に向かう源流が、千川上水から受けた分流が流れる水路のはずです。但しこの地図では、水路は青梅街道まで連続しておらず、途中で途切れています。また、青梅街道沿いにあったはずの分水(六ケ村分水)も記載されていません。

まずは、私がたどった経路を写真とともにご紹介します。
弁天池からの源流です。
南から弁天池公園をみたとこです(下写真)。
 
逆に弁天池公園から南を見ると、細い路地が伸びているのがわかります(下写真)。この路地が、おそらく桃園川源流の痕跡でしょう。
 
路地をたどっていくと(左下写真)、ちょっと広い道路に辿り着きました(右下写真)。
  

このれんが道が、桃園川の本流です(下写真)。道の向こう側にある緑地は天沼もえぎ公園です。
 

それでは、もう一つの源流を、青梅街道からたどることにします。
下の写真は荻窪駅北側の青梅街道を北西に見ています。りそな銀行の横に、路地の入口が見えます(左下写真)。車止めの柵があるところが、昔は水路だった路地のお約束です。れんが道が先まで続いています(右下写真)。
  

ここかられんが道をたどっていくと(左下写真)、教会通り商店街を突っ切ります(右下写真)。
  

そして、先ほどの弁天池公園からの細い路地です(左下写真)。どう見ても、青梅街道から続いているれんが道の方が立派です。弁天池公園からの路地は、小さな支流が大きな本流に合流したようにしか見えません。れんが道をさらに東進すると、道はだんだん広くなっていきます。中央に緑地帯が出現します(左下写真)。
  

もっと行くと中央緑地帯がさらに広くなります(下写真)。私が到達したのはここまでです。熊野神社の近く、といったところでしょうか。
 

以上が、私の見た現在の桃園川源流の様子です。

それでは、千川上水から分水されて桃園川に流れた経路についてたどってみましょう。
千川上水は、玉川上水からの分水です。玉川上水は、多摩川の羽村取水所で取水され、延々と東進して、新宿を経由し、最後は四谷大木戸に達し、そこから江戸市中に水道として供給されました。私は以前、羽村取水所から順次玉川上水をたどったことがあります。一日で歩ける距離を刻みながら、何日もかけてです。ブログ記事としては、玉川上水(1)から始まり、玉川上水(11)までです。千川上水分水地点については、玉川上水(7)に書きました。

玉川上水の全体地図です。

このうち、鷹の台から三鷹までの詳細図は下の地図です。ここで、境浄水場の手前に千川上水を記載しています。


左下の写真は、玉川上水から千川上水が分流する地点で、千川上水を見たところです。右下の写真で千川上水の始端に水が流れている様子が見られます。
 
千川上水

千川上水は、ここから延々と流れ、遠く王子にまで到達します。玉川上水事典の千川上水によると、
『(千川上水は)玉川上水の完成から42年後の元禄9年(1696)に開削された。開削の目的は、湯島聖堂、上野の東叡山、小石川の白山御殿、浅草寺御殿への引水にあった。』とあります。
その後、何回も廃止・再開を繰り返したようです。最後は昭和41年(1966)まで使用していました。
『かつては、産業用水として、明治8年(1875)創業の王子製糸をはじめ、板橋浄水場にあった陸軍の火薬工場、王子村紙幣寮抄紙工場へ用水を利用。その外、水車による精米、小麦やそばの製粉、農業用水は20ヵ村に波及し水田面積100㌶、取水制限の際には、「番水約定」のもと、樋口には水争いを避けるため村役人も昼夜立ち会うのである。
平成元年(1989)高度下水処理水を日量1万㌧放流、水量の70㌫は善福寺川へ、30㌫は板橋に至り、流末は石神井川である。』

この千川上水は、青梅街道と交差します。西武新宿線上石神井駅の近く、関町一丁目信号です。ここを起点として、千川上水からさらに分水して青梅街道沿いに東進する「七ヶ村分水(明治以降は六ヶ村分水)」が存在しました。「七ヶ村分水」サイトに説明があります。このサイトには、「嘉永二年 水車設置にかかわる絵図」  「武蔵野市史 続資料編八井口家文書五」に掲載された絵図を元に、その一部をイラスト化したものが掲示されています。この絵図で、青梅街道沿いに形成されているのが七ヶ村分水、その末端近く、「天沼村」と記載された孫分水が、我らが桃園川への分水ですね。上に書いた、りそな銀行脇から続くれんが道が、孫分水の現在の姿です。

その他情報サイト
第五章・第二節/六ケ村分水と天沼弁天池
荻窪警察署管内の知識
1-6 さんぽ:千川分水
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荻窪_教会通り界隈

2015-08-03 19:50:13 | 杉並世田谷散歩

JR荻窪駅の北側、青梅街道の北方に、「教会通り商店街」という商店街があります。下の写真です。上の地図で、中央の[+]の5mm左あたりから北上する道路です。

《教会通り商店街》
 

教会通り商店街から北にそれると、東京衛生病院があります。英語名は"TOKYO ADVENTIST HOSPITAL"とあり、キリスト教系であるようです。

《東京衛生病院》
  

「教会通り商店街」といい、キリスト教系の病院といい、近くにキリスト教会がありそうです。そこで探してみました。

《天沼教会》
  

東京衛生病院の向こう側に、天沼教会(SEVENTHDAY ADVENTIST CHURCH)はありました。
中に入らせてもらうと、中は大勢の人が入れる教会になっています。残念ながら内部の撮影許可はいただけませんでした。うかがうと、「教会通り」はやはりこの教会に由来するようでした。教会通り商店街の旗には「鐘の鳴る街」とありますが、教会は鐘を鳴らしていないようです。

教会通り商店街の北端から東へ向かうと、弁天池公園に出ます。

《弁天池公園》
 

 

 

 
弁天池、今は小さな池ですが、昔はもっと大きな池であったような記録もあります。また、桃園川の源流であったといいます。そこで、ウィキペディアで桃園川について調べてみたら、面白いことが判明しました。
現在の天沼弁天池公園には、天沼弁天社内の湧水で生じた弁天池(弁天沼・天沼・瓢箪池。約300坪)がかつてありました。それが桃園川の水源だったそうです。弁財天祠が祀ってある池なので「天沼」の地名となったようです。
1975年(昭和50年)に天沼八幡神社が改築される際、天沼弁天社の弁財天を八幡神社境内に移設し、土地は西武鉄道に売却されました。湧水は埋め立てられ、当時西武鉄道会長であった堤義明と関係女性宅が建ったというからびっくりです。
2004年に杉並区に売却され、2007年(平成19年)に区立の天沼弁天池公園として整備されました。
現在、この公園内にある池はこのときの公園造成で造られた人造池であり、本来の池とは異なり湧水はありません。

弁天池公園の北端には、杉並区立郷土博物館分館が建っています(下写真)。
私が訪問したときは、「戦争を語り継ぐ」という展示を行っていました。
  
また、公園の南端には、右上写真のような不思議な門が建っています。由緒があるのかどうか、まわりには何も説明がありませんでした。
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明治天皇荻窪御小休所

2015-07-26 00:20:16 | 杉並世田谷散歩
荻窪界隈の探訪第2弾です。
荻窪駅から東南東方向の道を歩いていたら、不思議な建物を見つけました。杉並区立中央図書館へ行く途中です。

《明治天皇荻窪御小休所》
《武家長屋門》
南の道路側から




 

石柱には以下のように記されています。
「明治天皇荻窪御小休所」
「史蹟名勝天然記念物保存法に依り史蹟トシテ昭和九年十一月文部大臣指定」
「昭和十一年十一月」

場所は、下の地図の中央[+]の位置です。

私は、古地図史料出版株式会社が発行している「東京近傍図(1/2万)七面組 明治二十年作 陸地測量部作」を持っています。この地図から、上の地図と同じ位置を下に記します。


「明治天皇荻窪御小休所」について、ネット上では公式の説明を見つけることができませんでした。唯一、伊藤Pの部屋で、下記書籍に説明があるとの記述を見つけました。そこで、さっそく購入しました。
東京の歴史名所を歩く地図
ロム・インターナショナル
河出書房新社

説明によると、古い建築物としては、「明治天皇荻窪御小休所」そのものと、「武家長屋門」の二つがあるようです。私が最初に見つけたのは、そのうちの「武家長屋門」の方のようです。

この場所のすぐ北の道路は、青梅街道の旧道です。江戸時代、その青梅街道沿いに、この界隈の名主を務める中田家の屋敷があったようです。
ここは、第11代将軍家斉が寛政年間(1789~1801)にたびたび訪れた鷹狩りの際、休憩に立ち寄った場所でした。しかし、名家といえども将軍が農家に立ち寄るのではご威光にかかわると、特別に作らせた武家長屋門だと言われています。

南の道路側から見た長屋門の入口
 

この長屋門、下々の出入りを固く禁ずるようないかめしい作りですが、上の写真のように、入口の左通用門が開いています。そこから人々が自由に出入りしています。そこで私も通用門を通り抜けてみました。
長屋門の北側は、左右に大きなビルが建ち並んでいる区域です。長屋門自体は、北側から見た方がよくわかりますが(下写真)、ビルが邪魔して全体を見ることはできません。

北のビル敷地側から


北側から見ると、長屋門の骨組みがよくわかります。中央は門、そして左右は空きスペースです。左側は現在建築資材が置いてありますが、右側は空っぽでした(右下写真)。上記書籍によると、普段はビルの車を停める駐車スペースとして使われているそうです。

ビル敷地側から見た入口                        右側スペース
 

さて、上の長屋門はあくまで「門」であり、それとは別に「明治天皇荻窪御小休所」があるはずです。長屋門の東側、四周を高い生け垣で囲まれてよく見えないのですが、古い木造の平屋一戸建ての小さな建物があります。この建物が「明治天皇荻窪御小休所」のようです。

御小休所らしき建物(南の武家長屋門側から)


ぐるっと一周しました。東側には、出入り口らしい門がありました(下写真)。
御小休所らしき建物(東側から)


p.s. 7/30 明治天皇荻小休所の由来について書き忘れていたので追記します(上記「東京の歴史名所を歩く地図」から)。
明治天皇小休所は、明治天皇が明治16年(1883)4月16日に埼玉県飯能の近衛師団演習統監に向かう途次と、同年4月23日に小金井の観桜会への途次の二度にわたってご小憩した屋敷の跡ということです。以来、明治末まで侍従らによる小金井観桜遠乗り会は毎年行われ、必ずここにも立ち寄られました。

小休所と長屋門はいずれも、昭和62年(1987)に邸宅跡地にビル建築と同時に現在の場所に移転復元された、とあります。それでは、移転前はどのあたりに建っていたのでしょうか。
上の、明治20年地図の中央当たりが、長屋門と小休所の現在の所在地です。ピンクの印は、現在のJR荻窪駅で、私が記入しました。左上から右下に走る道路が青梅街道で、荻窪駅と交差している部分は旧道であり、すぐ上に(現在は)青梅街道バイパスが通っています。地図の「46.1」と書かれた左上部分、ここが「旧中田家」ではないでしょうか。道路を迂回させている当たり、名家の威光が感じられます。そして、長屋門ですから、やはり旧青梅街道に面する位置に建っていたのでしょうか。そうとすると、現在長屋門が建っている南側道路から一つ北側に走っている道路(旧青梅街道)に沿って、北を向いて建っていたことになります。

ところで、上の明治20年地図に戻ります。青色は私が記入したもので、当時の河川を表します。地図の上端の中央に端を発して東に向かう青色、これは桃園川の源流になります。左下に流れる川は善福寺川です。右下にY字の青が見えます。Yの左上端位置は太田黒公園、Yの右上端位置は、これから向かう「読書の森公園」に該当します。
これからも、「明治20年地図」が活躍することとなります。

さて、区立中央図書館に向けて東南東に進みます。
右側に由緒ありげな建物が見えてきました。

《西郊ロッヂング》


ウィキペディアによると、1938年(昭和13年)建築の洋風建築で、2001年の改修後は賃貸住宅となっているそうです。
正確には、1931年(昭和6年)に建築されたのは本館(下写真)で、1938年(昭和13年)には新館(上写真)を増築し、その後、本館を旅館「西郊」として、新館を高級下宿洋館「西郊ロッヂング」として運営されるようになったそうです。
旅館西郊は、西郊ロッヂングに隣接して東側にあります。

《割烹旅館西郊》



せっかく荻窪に勤務しているのですから、一度は旅館西郊に泊まってみたいものです。

区立中央図書館のすぐ西側に、不思議な公園がありました。

《読書の森公園》

説明書きには、「読書の森公園は、平成14年10月に荻窪在住の中田和夫氏のご厚意により寄贈を受けた土地を、区民がみどりに触れながら読書に親しめる公園として整備したものです。 平成18年3月 杉並区」と書かれています。
中田さん?、明治天皇御小休所となった名主の中田さんとご親戚でしょうか?。







不思議な公園です。公園というと、普通は平地で、子供用の遊具が並んでいるものですが、ここは上の写真にあるようになだらかな丘であり、池も配置されています。
上の明治20年地図と対比すると、ここはY字の川の右上源流部分に該当します。
明治20年地図の上にgoo地図を掲載しています。この地図の左下「地図」ボタンを押すと地図ページに飛びます。ここで「古地図/昭和22年」を選択すると、昭和22年の航空写真に変わります。この航空写真で見ると、Y字の川の右上部分は、読書の森公園とその北の体育館を含め、当時は畑か原野になっていたようです。
また、同じ地図で「航空」を選ぶと、現在の読書の森公園の位置には、まだ大きな建物が建っている写真になっています。

読書の森公園の裏手、区立中央図書館との境界の林の中に、下のガンジー像が建っていました。

《ガンジー像》

「東京都杉並区にこのガンジー翁の銅像を、2008年11月6日にガンジー・シュラム(修養所)再建財団創立者・インド国会議員・故ニルマラ・デシュパンデ女史の遺志により、ガンジー翁の精神に基づいて、世界平和と相互理解が深められることを祈念して、送る。」

《杉並区立中央図書館》
 

私は杉並区在住ですが、自宅の近くには杉並区立図書館が存在せず、仕方がないので、通勤の経路にある図書館(渋谷区立図書館笹塚分室)を利用していました。
今回、上記中央図書館で利用登録しました。今後図書館から本を借りる際には、この図書館を利用することになります。

区立中央図書館のすぐ北側は体育館です。下のような記念碑が建っていました。

記念碑の由来
昭和28年11月に開設した杉並区立公民館
「特筆されるものは、昭和29年3月ビキニ環礁水爆実験をきっかけとして、杉並区議会において水爆禁止の決議が議決されるとともに、同館を拠点として広汎な区民の間で始まった原水爆禁止署名活動であり、世界的な原水爆禁止運動の発祥の地と言われております。
その公民館も老朽化により平成元年3月末日をもって廃館されました・・・。
ここに、公民館の歴史をとどめるとともに、人類普遍の願いである永遠の平和を希求して記念碑を建立したものであります。
平成3年3月」

荻窪駅から東南東方向への探索は、こうして終了しました。
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荻窪~太田黒公園

2015-07-22 21:02:11 | 杉並世田谷散歩
この5月から、私は荻窪にある特許事務所に勤務しています。
お昼休みには、食事の後に荻窪界隈を散策しています。ここでは、散策で目に留まった風景を写真に撮り、順次ご紹介していきたいと思います。

まず最初は太田黒公園です。太田黒公園は、荻窪駅から南東方向に歩いたところに位置しています。写真は、7月13日に訪問したときに撮影した写真です。以下、ウィキペディア杉並区役所の施設案内から引用した部分を『 』で示します。
下の地図、中央の緑色のところが太田黒公園です。荻窪駅は左上の端です。

『大田黒公園(おおたぐろこうえん)は、東京都杉並区荻窪にある区立の都市公園。音楽評論家大田黒元雄の自邸を整備し、1981年(昭和56年)10月1日に開園した。
自邸の30%を公園にして欲しいという大田黒元雄の遺志に基づいて、遺族から杉並区に寄贈された土地に、周囲の敷地を合わせて公園として整備したものである。
可能な限り旧自邸の庭園の原形を残して、回遊式日本庭園として整備されており、正門から延びるイチョウ並木をはじめとして随所に巨木が残るほか、従前からあった池が再現されている。
園内には、休憩室及び茶室や、1933年(昭和8年)に建てられたレンガ造洋館のアトリエを改装した記念館が設けられている。』

  
正門                      通用門から
正門(左上写真)から入ると、まずは左右に銀杏の巨木が並んだ素晴らしい並木が出迎えてくれます。しかし今回は残念ながら、並木の銀杏を剪定している最中で、正門からは入れませんでした。替わりに、普段は閉じている正門横の通用門から入ることができました(右上写真)。

 
正門から続く並木
『門を入ると白い御影石を敷いた園路がまっすぐにのびています。
その長さは70メートルあり、左右は樹齢100年を経た大イチョウの並木です。』
上の写真は、公園の中から並木とその先にある正門を撮影したものです。

 
庭門
公園の配置としては、正門から銀杏並木の部分は細長く続いており、銀杏並木の終点には庭門(上写真)があり、その先には池を配した広い庭園が広がっています。

 
園内
園内には水の流れが配置され(上写真)、その先には池があります(下写真)。
 

 

 
『池は筑波石と植込みで飾られ、ほとりにはあずまやが建っています。』

 
休憩室と茶室

 
記念館
『大田黒氏の仕事場であったレンガ色の記念館が保存されています。
記念館は昭和8年に建てられたもので、当時としては珍しい西洋風の建築物です。
中には愛用のピアノや蓄音機などが展示されています。』
記念館の中は残念ながら写真撮影禁止でした。そのため、説明についてもきちんと再現できません。
記念館の中に入ると、グランドピアノが置いてあります。古いスタインウェイらしく、最近までは演奏不可能でしたが、調律して演奏可能な状態に復活したようです。ただし、劣化を恐れてたまにしか演奏しないそうです。

この公園は、音楽評論家太田黒元雄氏の旧自邸が寄贈されて整備されたといいます。太田黒元雄氏について、ウィキペディアで調べてみました。
『大田黒 元雄(おおたぐろ もとお、1893年1月11日 - 1979年1月23日)は、日本の音楽評論家である。日本における音楽評論の草分けとして知られる。』
『大田黒の父は、日本の水力発電の先駆者で、芝浦製作所(現東芝)の経営を再建し、財をなした大田黒重五郎(-じゅうごろう)である。』
音楽評論家としての業績は、私も知ることができません。しかし、資産家であったことから、こうして杉並の地に太田黒公園が遺ることになりました。ありがたいことです。

こちらの紹介によると、11月末から12月はじめにかけて、この公園は紅葉がライトアップされるそうです。また、そのときが楽しみです。
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和田堀給水所(4)

2015-03-29 11:48:27 | 杉並世田谷散歩
昨年の10月以降、超多忙状態が続いていました。その影響でこのブログを更新することもままならず、1月は2件、2月はとうとう皆無の状態でした。3月もあと僅かです。1件だけでも駆け込みで更新しておきます。

京王線の代田橋と明大前の間でにある和田堀給水所の建て替え工事については、昨年1月昨年10月19日時点、そして本年1月11日時点の工事進捗をご報告してきました。

方形の2号配水池については、その後急ピッチで撤去が進み、2月1日にはほぼ大部分が解体された状況でした。その時点での写真は撮影していたのですが、ご紹介が遅れ、本日になってしまいました。
2月1日には下の写真のように僅かな痕跡が残っていますが、2月中にそれも撤去が完了し、現在では2号配水池は跡形もありません。

《正門から・2号配水池北面》

本年2月1日


本年1月11日


昨年1月11日

《西から・2号配水池南面》東京都庁を遠望

本年2月1日


本年1月11日


昨年1月11日

《東から・2号配水池南東角》

本年2月1日


本年1月11日


昨年1月

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