大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年04月11日 | 写詩・写歌・写俳

<587> 大和の歌碑・句碑 ・詩碑 (10)

        [碑文]     よしの山 花ぞちるらん 天の川 くものつつみを くずすしら波             大塔宮護良親王

 大峰山脈の支峰の一つに観音峰(一三四七メートル)という山がある。その山の中腹に当たる標高一〇〇〇メートル付近に石灰岩の巨石が多数露出している少し平らになっている場所がある。吉野郡天川村の洞川に向かう虻峠のトンネルを抜けたところの登山口から修験道の山である山上ヶ岳に発する山上川の渓谷に架かる吊り橋を渡って登り、三十分ほどのところ。辺り一帯を観音平と呼ぶが、ここの登山道脇に石灰岩の自然石を利用して作られた大きな歌碑がある。

 この歌碑より少し登ると、道は二手に分かれ、道なりに行くと観音峰へ。右に折れて登ると垂直に切り立った岩壁に突き当たる。その岩壁に「観音の岩屋」と呼ばれる旧跡の洞窟があり、子供の背丈ほどの口が開いている。自然に出来た洞窟で、中に神仏を祀っているような形跡があり、行場のようにも見受けられるが、定かにはわからない。このひっそりとした洞窟には南北朝時代に南朝方の天皇や皇子が隠れ場所として利用したという謂われがある。歌碑はこの洞窟に関わりをもつものとしてこの場所に作られた。

 南北朝時代の主人公である後醍醐天皇は飢饉や騒乱による世の中の乱れに乗じ、二度にわたって政権奪取の倒幕を謀ったが、失敗し、隠岐に流された。皇子たちは京の都を離れ、それぞれ地方に赴いて、活動したが、その中の一人である大塔宮護良親王(だいとうのみやもりながしんのう)は笠置から吉野に走り、復活の機を狙って活動を続けた。

 歌碑の碑陰によると、刻まれた歌は、元弘二年(一三三二年)十一月、吉野山に兵を挙げた親王が、この合戦に敗れ、天川にからくも落ちのびて観音峰の岩屋(観音の岩屋)に身を隠したとき、藤原俊成の「よしの山花やちるらん天の川雲の堤を洗ふしらなみ」の一首を本歌として碑に刻まれた歌を詠んだという。『藤原俊成全歌集』によれば、「治承二年右大臣百首」に「よし野山花やちるらん天の川雲のつつみをくづす白浪」とある。

  この歌碑は「お歌石」と呼ばれ、元は自然石に直接刻まれていたが、石灰岩であったため風化が著しく、読めなくなったので作り直し、歌を刻んだ花崗岩の板を登山道のすぐ傍の石灰岩の巨石を削ってはめ込んだ。これが現在の歌碑である。

                                   

 南北朝時代は、南朝が正統と見なされているが、後醍醐天皇から後村上、長慶、後亀山天皇まで四代五十七年に渡って続いた。この「観音の岩屋」は事の迫ってあったとき、後村上天皇も長慶天皇も籠り、天川郷の民を頼りにしたと言われる。この史実に基づき、登山道には南朝の奮闘物語が石盤にして登山者の目を引くように置かれている。

 登山道に南朝秘話の物語を辿ってみると、いつの時代にも権力争いはあるけれども、南北朝時代はそれが殊に激しかったということが思われる。また、天川郷の人々の忠誠心が、壬申の乱の大海人皇子のときや江戸時代後期の天誅組の活動などにも重なり、紀伊山地、吉野山中の人々の心意気というものが伝わって来る思いがして、何か惹かれるところがある。

  なお、碑に刻まれた歌が口語体であるのは、登山者への配慮であろう。写真は石灰岩の巨石群が露出するミズナラ林の中に立つ「お歌石」の歌碑と岩壁に見られる洞窟、観音の岩屋。観音峰の名は天川に逃れ来たった後村上天皇の夢枕に十一面観音菩薩が現われ、菩薩の導きによって天皇が安心を得たことによるという。右端の写真はミズナラ林。芽吹きの四月下旬が待たれる。        

 「お歌石」の歌碑より二十分ほど登ると、三百六十度遮るもののない大和では有数の展望が楽しめる茅原の観音峰展望台(一二〇八メートル)に至る。なお、三十分ほど登ると観音峰の山頂(一三四七メートル)に着く。展望台は円形に模った石積みの中央に石碑が立ち、そこからの見晴らしは抜群で、大峰の群峰はもちろんのこと、遠くは金剛・葛城の山並まで望むことが出来る。

 秘話の山も 春陽溢るる 心地よさ

 


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