大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2017年08月03日 | 写詩・写歌・写俳

<2043> 余聞、余話 「心のフレーム」

       湧き上がる雲の白さに照らされて我がフレームの中の故郷

 八月七日は私の誕生日。もう直ぐである。つまり、お盆前の暑さの盛りに私はこの世に生まれ出て来た。父母がこの日を選んだわけではないだろうが、とにかく、四季の中で一番暑いときに産声を上げた。言わば、私にとって人生の出発が盛夏の暑さの中だったわけで、人生のもっともはじめにこの身をもって八月という季節を体験したのである。八月という月が私にとって特別な月に思えるのはこのためである。

 以前このブログで七月が私にとって生理的に苦手な月であることに触れたが、それは私をお腹に抱えた臨月の母の四苦八苦の心持ちが胎児の私に以心伝心して七月が苦手な月になったのに相違ないと思えたからで、今もその思いに変わるところはない。だが、八月はそのときも触れたように気分が違う。八月は母がお産を成し遂げ、達成感と解放感に満ちた月で、私が日の目を見た月である。

                    

 私が生まれたのは瀬戸内に面した故郷の家で、産褥の母は青々たる田一枚を隔てた隣家の築地の庭の百日紅が淡い紅色の花を咲かせていたのを目にしていたはずで、百日紅の背景にはほどよい形の山が聳え、その上には夏の雲が湧き上がり、その雲の峰が白く輝き、母にはそうした絵のような真夏の風景に見守られながら私という男児をこの世に生み出したのである。

 今は田が埋められ、新興宗教の道場の敷地になり、宿泊用の建物が建てられ、その風景を遮ってしまったが、私の子供のころには見られ、その百日紅の風景は夏休みの図画の宿題に描いたこともある。その風景はお産を終えた安堵の母の目に幸せ色をもって映ったのではなかったかと今も想像される。私にはまさに心の中の風景と言ってよい。

 私にとって、夏という季節の心持ちは斯くのごとくで、盛夏の前半と後半ではイメージを異にするところがある。これは八月七日の誕生日が大いに関わり、影響していると言える。つまり、私にとってこれは人生の一等最初の体験で、必然のものに違いなく、三つ子の魂百までではないが、この思いは年齢を重ねても変わることのない一生のもののように思える。

 大和は今まさにその盛夏の真っただ中。奈良盆地を囲む青垣の山並みのそこここに夏雲が湧き上がり、その雲の峰々が白く輝き盆地の底に当たる大和平野を照らしている。その湧き上がる夏雲に心のフレームをかけてみると、夏雲は遠い、しかし、忘れ難い切ないような故郷の思いの風景に繋がる。それは幻なのであるが、私には確かなものである。父は煉瓦工場へ働きに行き、夏の暑い盛りも、冬の寒い日も、風雨の強い日も、関係なく自転車で出かけていた。思うに、七人家族の大所帯の日々は慎ましく、そして、健やかであった。 写真はイメージで、心のフレームの中に湧き上がる郷愁の夏雲。


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