大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2016年01月14日 | 写詩・写歌・写俳

<1476> 楽観と悲観 (1)

       楽観と悲観に触れられ過ぐる時 流れる雲を置く冬の空

 私たちの心の中には楽観と悲観が同居し、何かの拍子に表面に顕れて私たちの行動に影響を及ぼして来る。読んで字のごとく、楽観と悲観は対極にあり、その考え方をもって一方を楽観主義(オプティミズム)といい、他方を悲観主義(ペシミズム)という。で、この楽観と悲観はときとして論を展開する。この楽観と悲観に立つ者を楽観主義者(オプティミスト)とか悲観主義者(ペシミスト)という言い方をする。

 ものごとに対し、肯定的に捉えるのが楽観であり、否定的に捉えるのが悲観で、私たちの心は確定しているものではなく、常に動揺していて、楽観と悲観がせめぎ合いを繰り広げていることが往々にしてある。ときには、何かの要因によって、その立場が逆転し、楽観論者が悲観論者になったり、悲観論者が楽観論者になったりするということもあり得る。

                

 このことからして言えば、人生は常に動揺しているという観点から言って、楽観と悲観のどちらが正しいとか、よいとかということは言えないと言える。楽観に添う言葉としては、例えば、前述したごとく、現実肯定という言葉があり、楽天、プラス思考、ポジティブ、前向き、勇気、積極、攻め、促進、奔放などという言葉があげられる。一方、悲観で言えば、現実否定という言葉があり、厭世、マイナス思考、ネガティブ、後向き、臆病、消極、守り、抑制、忍耐などという言葉が考えられる。

 これらの言葉は楽観と悲観に等しく、相対してある言葉だが、このように楽観と悲観に判別した形で、どちらに属するかという点においてその言葉を吟味してみると、私たちには楽観側に軍配を上げたい気分にとらわれがちになる。だが、生の本質に死というものがあり、私たちの営みには影の部分があることをして言えば、私たち生きとし生ける者は当然のこと死とか影というものを考えに置かなくてはならず、その死や影の観点からものを考え、生に生かすというのが必要欠くべからざるところとなり、これが、所謂、悲観に通じるわけで、悲観は暗く、私たちにとって無意味なように思われがちであるが、重要な意味を持っていると言える。

 例えば、楽観側の勇気と悲観側の臆病を見てみると、勇気は人類の進展に大きく寄与して来たことは確かであるが、臆病もまた人間を守るとう点において大いなる働きをし、人類を守って来たというところがうかがえ、勇気に引けを取るものではないことが言える。勇気は派手で目立ち、臆病は地味で目立たないが、ともに人類の貢献に寄与して来たと言えるのである。

 つまり、楽観と悲観は好むと好まざるによらず、個々人の中に共存してあって、それが外界の環境(影響)等に触れることによってどちらかに顕れるということになる。この個々人の意思が総合され、総意となって社会全般に及び、社会の志向形成に働き、或るは楽観と悲観が論議の対象になったりするのである。では、ここで、楽観と悲観の一つの例を示して今少し考察してみたいと思う。 写真はイメージで、冬の雲。この雲をどう捉えるかは見る側の心持ちによる。楽観と悲観を考える上のヒントもこのあたりにあるかも知れない。  ~次回に続く~

 

 


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