大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2011年12月12日 | 写詩・写歌・写俳

<101> 炎 (かぎろひ)
       月の道 日の道 ここに時の道 即ち我らの 辿り行ゆく道
  『万葉集』巻一に「軽皇子の安騎の野に宿りましし時、柿本朝臣人麿の作る歌」と題して長歌一首と短歌四首が載っている。軽(訶瑠)皇子は天武天皇と持統天皇の孫に当たり、持統天皇の後に即位した文武天皇で、この一連の長、短歌は持統天皇に仕えていた宮廷歌人の柿本人麻呂が 皇子の遊猟に随行し、 次期天皇と目される皇子を讃えて詠んだものである。 今回は この中の一首に詠まれている「炎」(かぎろひ)について触れてみたいと思う。
    東の野に炎の立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ       
  これが その一首であるが、「炎」(かぎろひ) はよく晴れた冷え込みの厳しい払暁に東の空が曙光によって彩られる現象を指して言うもので、皇子の一行が安(阿)騎の野(現在の宇陀市大宇陀)に旅宿したとき、 この現象が現われたのであろう。そのときのそれがどんなものであったかは想像するしかないが、 撮影に当たっては感動的であった。 写真は大宇陀の大蔵寺の裏山 から東を望んで撮った
もの。シルエットの山並は台高山脈の北端辺りで、 中央の高い山は高見山 (一二四八メートル)である。山の向う側は三重県で、伊勢神宮のある伊勢の国である。
  『万葉集』には万葉仮名で「東 野炎 立所見而 返見為者 月西渡」と漢文的に記されており、 これを五七五七七の歌にするとき、「炎」 を 「かぎろひ」 と読ませ、「渡」を「傾」に訳したわけで、 訳に工夫の見られる点が指摘出来る歌である。これは後世の手柄と言えるが、「炎」を「かぎろひ」とはまことに麗しい呼び方である。なお、「かぎろひ」には今一つ春に係る枕詞として用いられている現在の陽炎(かげろう) の意味もある。 燃え立つ炎という意味からすれば同じような気分にあるが、 春と冬、朝と昼の起因する条件的違いが認められる。
  人麻呂の一首は、西に月が傾き、東に曙光が現われる、つまり、太陽の昇る兆しが見える自然現象の美しさにあるが、 この「かぎろひ」の曙光を天皇の即位が近い軽(訶瑠)皇子に重ねて詠んだものであるというのがこの歌に対するもっぱらの評で、宮廷歌人人麻呂の面目躍如たるところが見て取れる歌である。
                                                                  
  私はこの歌を見ていると与謝蕪村の「菜の花や月は東に日は西に」という句を思い出す。人麻呂の歌が朝方の歌に対し、蕪村の句は夕方の句であり、その状況からして、月は両方とも満月乃至は満月に近いときに詠まれたと知れる。そして、日は昼を意味し、月は夜を意味するもので、両方ともが昼と夜の接点時に詠まれていることが指摘出来る。ここに我が冒頭の歌も生じるということになるわけであるが、昔も今も、 時の移りゆく流れというものは変わりなく、 日も月も変わらずあるが、移りゆく時の間に身を置く生あるものたちはみな一様に変わりゆくことを宿命づけられていることが思われて来る。
  当時で言えば、つまり、時は移りゆき、権勢を誇った持統天皇は退き、 遊猟のとき十歳ほどであった軽(訶瑠)皇子は十五歳にして即位し、第四十二代文武天皇になったのであった。しかし、月日はなおも滞ることなく流れ、文武天皇は二十五歳にして亡くなり、母親が引き継いで即位し、元明天皇となったのであった。
  因みに、人麻呂の万葉歌で知られる安(阿)騎野の宇陀市大宇陀は「かぎろひの里」として、人麻呂の一行が見たであろう「かぎろひ」の日を天文学的見地から推察して陰暦十一月十七日を割り出し、毎年、 この日に「かぎろひを観る会」を催している。今年は十二月十一日だった。 来年は十二月二十九日に行われる。天気次第であるが、この日は太陽と月の運行を同時進行で実感出来る日である。


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