大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2012年04月15日 | 写詩・写歌・写俳

<226> 春  霞
         見えて見えざるもの見えず見ゆるもの大和のいはば春霞かな
    春霞いよよ濃くなる真昼間のなにも見えねば大和と思へ                                    前川佐美雄
 春がたけなわになり、陽気が増して来ると、大和にはよく霞がかかり、 周囲の山並も霞んで見えなくなるほど濃くなることがある。佐美雄の歌はこの情景を詠んだものであるが、私には写生による単なる実景を言っている歌ではなく、大和という土地の歴史的な特徴を暗には示している内容の深さを持った歌であるように思われる。
 佐美雄は葛城山の麓に当たる葛城市(旧南葛城郡忍海)に生まれ、 父の死後、帰郷し、茅ヶ崎市(神奈川県)に転居するまで、大和の生家や奈良で暮らした。 この歌はその間の歌で、生家の生活圏からは奈良盆地の平野部である大和平野が一望出来た。 その平野部の西端に当たる場所は歴史的な物語も展開する大和三山や藤原宮跡をはじめ、 大和王朝が誇る古墳群などが見て取れる位置にあった。

                                               
 で、 歌に言う「なにも見えねば」のことわりは、 一望するところの眺望が春霞によって妨げられた状態をいうものであるけれども、この言葉の中には古墳を象徴として見ることが出来る土に埋もれた大和王朝の時代が暗には含まれているということが私には思える。 つまり、 何も見えないのは大和が土の下にその歴史と当時の様相を埋めていることを言っていると解せるわけである。これは考古学的世界に類する風景が想像され、そこにはさまざまな説がなされるのであるが、その説の大方は推論であって、実相たる真の姿は何も見えないに等しいと言えるのである。
 この「なにも見えねば大和と思へ」という佐美雄の歌は この点に及んでいるわけで、 私にはこの歌を読み返すたびに佐美雄の諦観とも言えるここのところが思われて来るのである。日本の歴史において都の変遷は概ね奈良、京都、 東京という順に繋がっているが、 奈良の大和は、 その歴史の様相を知る上の資料という点において京都や東京と違い、ほとんどが土の中に埋もれているという特徴を有している。 つまり、大和というところは土に埋もれてしまった都で、何も見えない状況にあると言えるわけで、佐美雄はこの点を春霞の情景に重ねて詠んだと私には受け取れる。
 この歌の歌碑が佐美雄の住まいしていたちょうど大和平野の反対側に位置する三輪山の麓にある檜原神社の境内に建てられているが、ここに建てられた意味はよくわかると言える。この境内も正面に二上、葛城の山並が望め、第十代崇神天皇に縁の大和王権確立期に生まれた神社であることを合わせ思えば、 歌碑の位置として申し分のないことがわかる。
 最近、明日香の甘樫丘に登り、また、奈良の若草山に登り、麗らかな春の大和の眺望を楽しんだのであるが、 周囲を青垣の山並に囲まれた盆地は大気が滞留するからであろう、 霞がかかって、そのベールに阻まれていずれも眺望がきかず、 金剛葛城山系の山並は何も見えない状態だった。 佐美雄はこういう情景を目にして「春霞――」の歌の想を得たのではなかったか。 これが春の大和の一景であって、 思いは尽きない抒情を含んでいると言える。 写真は左が若草山からの眺望。右が檜原神社にある前川佐美雄の「春霞―」の歌碑。

    


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