<60> 大 和 秋 天
全テ天下ノ事ナリ
早いもので、妻が怪我をして四週目。お陰でギプスは外れた。しかし、鬱血がひどく、患部の右足の踝付近が腫れ上がって当分の間リハビリが必要なようである。今日も病院に同行し、待ち時間の間、天気がよいので近くの明神山(別名西山・二七五メートル・王寺町)に登った。簡易舗装の片道約二キロ。頂上は公園になっていて、展望台が三つ。見晴らしのいいところである。ウイークデーなので人はいないだろうと思って登ったが、結構歩く人が見られた。多分、歩くことを日課にしている人たちなのだろう。
写真は山頂から東、つまり、大和平野側の眺望である。この眺望下は古代からずっと歴史の展開があったところであるが、いま目にするに、天は何ごともなかったように晴れ渡って広々として明るい。そして、私たちは天の下のいまここにこうして暮らしている。
遠くに青垣の東の山並が連なっている。ちょうど真ん中付近が大和発祥の地、三輪山の辺りであるが、三輪山は雲に被われてはっきりと確認出来なかった。大和は盆地の国で周囲を山に囲まれ、これを青垣と表現したが、この青垣の山々に囲まれているゆえにどの方角からも平野部を俯瞰して見ることが出来る。
明神山とは反対の南東の山になるが、舒明天皇(五九三年から六四一年)が天香具山(天香久山・一五二メートル)に登って詠んだ国見の歌が思い出される。『万葉集』巻一(二)に反歌をともなわず載っている。
大和には 群山あれど
とりよろふ 天の香具山
登り立ち 国見をすれば
国原は 煙立ち立つ
海原は 鷗立ち立つ
うまし国ぞ あきづしま
大和の国は
今から約一万年前の縄文時代には盆地の中央部は広く湖だったようで、当時は山側に寄って人々は狩猟生活を営んでいた。で、大和は山処(やまと)から来ているという説があるが、当時の地勢によって名づけられたという見方である。それが弥生時代のころから徐々に湖の水が引き、干上がって盆地の中央部でも水田耕作が出来るようになって、舒明天皇の時代に移り行くわけで、「国原は 煙立ち立つ 海原は 鷗立ち立つ」という表現でもわかるように、なお当時は湖の一部がまだ残っていて、山に登れば、このような情景が見られたのだろう。
いまその面影はないが、盆地の中央部の底に当たる地域は低地で知られ、年間雨量が極めて少ないにもかかわらず、河川改修の及ばなかったつい最近まではよく洪水で水に浸かった。その状況は生活者自身の間に伝承されている。
舒明天皇の国見の歌は多分穫り入れが済んだ今の時期に詠まれたものではないかと晩秋の晴れ渡る空の広がる明神山の眺望に立って思うことではあった。
写真は明神山(王寺町)から東方の大和平野を望む。真ん中の写真の山並の中央付近が三輪山の辺りである。
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