<3527> 作歌ノート 曲折の道程(十八)
言葉とは人の意に添ふゆゑなれば悪意にあれば悪意を孕む
言葉というものは人の意思によって発せられることがほとんどであるから、悪意を持って使えば、その言葉は悪意を孕んだものになり、悪意が反映されることになる。自由に話せる現代においては、言葉に意思としての悪意が孕めば、自由に話せるがゆえにかえって始末の悪いことになりかねない。言葉の暴力というようなことが言われるが、いぢめに使われる言葉などがその例としてあげられる。
「言論の自由」という言葉は、一昔前までよく使われた言葉で、とても耳ざわりのよいところがあった。しかし、自由になった今日、使われることも少なくなったが、ときに使われるのを聞いていると、「ちょっと待ってくれ」と言いたくなることがある。それは自由をはき違えていることがあるからである。
一昔前までは、「言論の自由」という言葉に、言論を弾圧する側に向かって主張するものであるという一つの前提の認識が、言う方にも聞く方にもあった。そして、私たちは「言論の自由」という言葉を誰に向かって発するべきかということをよく心得ていた。
ところが、昔に比べ自由になった今日では、自由だから何を言っても構わないというような風潮が強くなり、「言論の自由」がその風潮の盾になるというふうに、言う方の都合によって使われることが目につくようになった。そして、言葉を発する側の意思がセンセーショナルな方に働き、伝える内容がおもしろければよく、思いやりがないこともままあり、それが言葉の暴力となって表面化し、本来は弱いものの側に立って、標榜しなければならない「言論の自由」が、それとは反対に言葉に痛めつけられる弱いものの側に向かって言い訳のごとく使われることもあるようになった。
そういうことで、言葉というものが、話すものの意思によって話され、悪意に添えば悪意を孕み、大いに人を傷つけることにもなることを、私たちは、自由に話せる状況にあるゆえに、よくよく承知しておかなくてはならない。いつの時代にも課題は尽きないが、この問題はインターネットという双方向性の伝達手段を持ち得ている今の時代の課題の一つとしてあげられる。言わば、自由には責任がともない、自由には配慮が必要ということが最近思われることではある。 写真は『マス・コミュニケーションの諸問題』(生田正輝著)の新聞の自由を述べた箇所。
言論の自由と言葉の暴力と諸刃における言葉を思へ
言葉には思ひが纏ふ己がじし或ひは軽く或ひは重く
情報の主体は言葉 言葉には各々の意思絡まりてある
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