大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2015年02月16日 | 写詩・写歌・写俳

<1260> 大和の歌碑・句碑・詩碑  (94)

      [碑文]          沫雪のほどろほどろに降りしけば平城の京師し思ほゆるかも                                                 大伴旅人

 この碑文の一首は、「沫雪 保杼呂保杼呂尒 零敷者 平城京師 所念可聞」という原文による『万葉集』巻八の「冬の雑歌」の項に見える1639番の歌で、詞書に「大宰帥大伴卿の冬の日に雪を見て京(みやこ)を憶(おも)ふ歌」とあるところから、大伴旅人が大宰府の長官であったとき、奈良の都を偲んで詠んだ歌であることがわかる。

 旅人は、天智天皇四年(六六五年)、大伴安麻呂の嫡男として生まれ、武門の系譜にある大伴家を支え、万葉中期を代表する歌人でもあり、『万葉集』の編纂に当たった家持の父としても知られる。略歴を見ると、平城遷都が行なわれた和銅三年(七一〇年)に父とともに佐保邸に移ったとされる。このとき四十六歳で、隼人、蝦夷を統率する左将軍に任ぜられた。

 和銅七年(七一三年)に父を亡くし、大伴家を担って行くことになる。養老二年(七一八年)、中納言に任ぜられ、翌年、山背摂宮になった。同四年(七二〇年)、隼人の反乱があり、征隼人特節大将軍として薩摩に赴くが、右大臣の藤原不比等が亡くなったことにより、京に呼び戻された。その後、養老五年(七二一年)に元明天皇が薨去し、従三位に叙せられ、神亀一年(七二四年)、聖武天皇が即位したとき、正三位となり、吉野行幸に従駕した。

 神亀四年(七二七年)に父と同じく、大宰府帥(長官)として妻の大伴郎女等一家を伴い大宰府に赴任した。大宰府で妻を亡くした後、本人も重病に陥ったが回復し、天平二年(七三〇年)に帰京し、大納言に任ぜられた。そして、翌年(七三一年)に臣下最高の従二位に叙せられ、この年、六十七歳で亡くなった。

  『万葉集』に七十六首を残すが、帥(長官)として大宰府に赴任していた時代の三年間、筑前守山上憶良、大宰府少弐小野老、笠麻呂(沙弥満誓)らと宴会を開くなどして活発に歌を披露し合い、筑紫歌壇の主催者の役割を果たした。酒を称揚する歌や梅花の歌などよく知られるところで、冒頭の碑文の歌もこの時代、即ち、大宰府における晩年のものであるのがわかる。

                    

  以前に触れたが、旅人は「わすれ草わが紐に付く香具山の故(ふ)りにし里を忘れむがため」 (巻三・334番)という歌も詠んでいる。これは若いころ住んでいた香具山の故郷を忘れたいため、身につけると忘れることが出来るというわすれ草(ヤブカンゾウ)を紐につけたという歌であるが、この歌の真意は望郷の念の強いところにあり、冒頭の碑文の歌にも通じるところがうかがえる。

 所謂、旅人は望郷の人だったと言ってよいが、膝を並べて歌を詠んだ憶良ら筑紫歌壇の面々も、旅人と同じように歌に心を癒していたのかも知れない。その詩精神は宴会の主人であった旅人の真摯な人柄によって発揮されたことがうかがえるところで、家持にもこの旅人の気質が受け継がれているように思われる。そして、それには大宰府における長官として人を束ねてゆく上に、誰からも親しみをもって迎えられたという旅人の処生のことも思われて来るところがある。

 この碑文の歌碑は、奈良市五条町の唐招提寺の東、春日山や若草山が遠望される秋篠川の左岸に建てられている。私が訪れたときはちょうど雪が舞い散っていた。「沫雪」とは泡のような雪のことであり、「ほどろ」は「はだれ」に等しく、雪が斑に降り積もる様をいうもので、この歌では、雪がはらはらと降り敷くさまを表現したものである。

 所謂、大宰府に降ったその「ほどろ」の雪に、奈良の京師(みやこ)でもそのような光景が見られたと懐かしく思い出したのである。 このような懐旧の念は誰にも生まれるものであるが、旅人には一層その思いが強かった。 写真は左が「沫雪の――」の旅人の歌碑。右は雪に霞む再建された平城宮の大極殿。  降る雪や 雪には雪に 点る情


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