大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2018年08月16日 | 写詩・写歌・写俳

<2420> 余聞、余話 「 昨今の社会的様相に思う 」

     「うそウソ嘘日本国中うそだらけ」嘘とは姑息のまたの言ひなり

  ついこの間であるが、新聞の投稿川柳に「うそウソ嘘日本国中うそだらけ」というのがあった。詠み手がどなたであったか覚えていないが、川柳だけは印象深く、忘れずにいる。最近の新聞やテレビのニュースを概観していると、確かにこの投稿川柳は今の世の中の様相を言い当てていると見て取れるところがある。

  嘘というのは自分の不都合なところを秘匿してかかる姑息より生じる。つまり、嘘は姑息のまたの言いにほかならない。如何なる美徳の理由づけがあっても、嘘は嘘をつく側の都合によって発せられる。この嘘の都合と嘘をつかれる側の気分の隔たりが大きければ大きいほどこの嘘の影響は当然のこと大きくなる。また、個人間の嘘は個人間の人間関係、即ち、個人的範疇の問題で収支されるが、個人でも組織でも世間にかかわりのある嘘は世間から糾弾されるに及ぶ。

  この姑息な嘘の最たるものは、法に触れる不正であり、人間性を問われる倫理に悖るところのものである。こうした嘘に対しては世間の人情が許さず、大多数の糾弾の矢が向けられる。これらの嘘は方便では済まされない範疇の嘘であって、そういう姑息な嘘が見え隠れしているのが昨今の日本における社会の様相になっていることをこの投稿川柳は指摘しているわけである。

                                  

 こうした指摘がある日本の社会的様相の傾向が如何なるところに起因しているのか。投稿川柳はそこまでは言及していないが、この川柳のニュアンスからは現代人の人間性に起因し、その人間性を問う感じのあることがうかがえる。確かに、私たちの見聞ではそのような一面が社会を被って、何か歯痒く思えたりして来るのであるが、果たして、川柳に言う嘘が現代人の人間性に伴なっていると見るのが妥当なのかどうか。そこのところを今少し考察してみる必要があるように思える。それは次のようにも言えるからである。

  現代は競争社会で、競争の激烈な状況から他者への思いやりの気持ちが失われ、そうした認識の中で、生き抜いて行かなくてはならない社会環境が現代人には影響している。この点は確かに言えるかも知れないが、姑息な嘘をもって自分を有利に導くことが知恵の働く人間には本能的に生じるようになっているという捉え方で言えば、姑息な嘘は今に限ったことではなく、嘘の本質は昔から変わらずあって、今もあるということ。つまり、姑息な嘘は現代人の気質の特徴によってその傾向にあるのではなく、昔からあるもので、殊更に今を象徴していると考えるのは短絡的過ぎる。

  このことを少し頭の隅に置いて、今一度、冒頭の投稿川柳を読んでみると、日本の今の世の中の「うそだらけ」の様相が現代人の人間性によってその傾向にあると考えるのは片手落ちではないかというところに行きつく。で、「うそだらけ」の傾向が、ほかの理由によるものではないかという考えが生まれて来ることになる。

  嘘を現代人の人間性に問うことは、その嘘の頻繁に問われる状況において何ら反論されることはないだろう。そのような様相に陥っているのが事実として見えるから。だが、この投稿川柳がこの一点のみの訴えに止まって満足するならば、これは短絡的に過ぎ、ものの見方を十分には把握しない発展性に欠けるところに終わる気がする。

  この投稿川柳から気づかされた日本における現代社会の様相について改めて考えてみると、嘘ばかりと見える現実が悲観にばかり傾くのではなく、現代人が築き開いてゆく社会的状況の中の明るい材料としても見えて来るところに思いが行くことになる。そして、それはむしろ頼もしくさえ思え、期待が持てると分析出来る。ということで、この投稿川柳の内容から今一度、そこのところを考察してみたいという気になった。

 人間が発する姑息な嘘は、今に始まったことではなく、知恵のある人間にはずっと昔から持ち前のようにしてある。つまり、嘘は現代人のキャラクターにおいて高まったものではなく、自己を優先する人間の本質から来ているものであれば、時代との関係性は薄いと考える。

  ただ、時代が進み、社会が変化し、複雑化するに従って嘘も変容し、或るは経験を重ねる中において巧妙になって来たことは否めない。しかし、現代人の人間性をもって姑息な嘘が多くなったという理由づけはあまりにも短絡的に過ぎる。それは嘘が自己本位の人間的本質に関わっていると言えるからである。

 投稿川柳が言うように、昨今殊更に嘘が目立ち、私たちの気に障って来るのは、以前に比べて嘘の露見、発覚が多くなっているからにほかならない。何故、昨今、嘘の露見、発覚が目立っているのか。ここのところが社会にとっては重要なところで、そこのところをはっきりさせなければならない。で、その要因はネット社会の出現にあると、私などは思う次第である。

  インターネットによる双方向性の情報社会が定着することによって、誰もが情報の発信者になり得、誰もが情報の受け手になれるというシステムが世界に張り巡らされ、構築されて来た。このことによって公私の隔てなく、個の立場で公に対して情報発信が出来る世の中になった。

 その双方向性の情報がどういう意味を持つかと言えば、如何なる個人であっても、一個人の意見が容易に大多数に及ぶ可能性を秘め、その一個人の意見が世論を動かすということも可能になった。このことが、納得出来ない姑息な嘘をもあぶり出し、露見させるのに役立ち、働くところとなって来た。ということで、投稿川柳が言う「うそだらけ」の世の中が出現して来たと考える。

  実例をあげれば、セクハラを訴えたハリウッド女優の発言がある。勇気ある発言だったが、インターネットの双方向性による情報の共有によって、この訴えはたちまち全世界に広がり、世界規模に共有される情報として大世論を形成し、同じようなセクハラやパワハラを受けた女性の声が直接的に次々と発せられ、今まで守秘され、闇に秘められて来た世間への姑息な嘘の深層が明るみになり、社会問題化したことがある。

  この一女優が発したセクハラ問題の提起に対する騒動は明らかに双方向性のインターネットによる情報共有が大きくその影響力を発揮したもので、たちまち世界に大きな波紋を広げた。その後、日本においても日大アメフト部の問題や日本ボクシング連盟の内紛などが起き、或いは、また、企業の不正の事範等々、これらもみな大なり小なりこの双方向性のインターネットによる情報の共有が影響して浮き彫りにされて来た。

  という次第で、インターネットの双方向性の情報伝達システムは社会の発展に望まれ、寄与されるところとなり、「うそだらけ」という姑息な嘘を社会において表面化させることに役立つところとなって来た。このことをして言えば、川柳子の見据える「うそだらけ」の世の中の状況は、現代人の進化の一端を垣間見ることにも通じると知れるわけである。ただ、人間が自己優先の姑息を本能的に持ち合わせているという点は、インターネットすらそれを姑息に利用する知恵の持ち主たちが現われ、社会を混乱に陥れるということも起き、例えば、フェイクニュースのような社会に悪影響を及ぼすようなことも起きるようになった。こうしたことも忘れてはならない点としてあげられる。

  言わば、インターネットの双方向性の情報システムは両刃の剣、即ち、功罪相半ばにある点を認識し、発展させる必要がある点も「うそだらけ」というこの投稿川柳は示めしている。一個人の意見も自由平等に掬い上げることを可能にした一方、その情報システムの力は巧妙な言葉、つまり嘘をも無責任に発することを自由にさせ、社会を混乱に陥れ、不愉快にすることも助長するように働く。この功罪はインターネットによる双方向性の情報システムが今後に託された将来的課題として捉えられるところとなっている。

  それは今やインターネットに左右される社会の良好な発展に欠かせないと言え、投稿川柳の「うそウソ嘘日本国中うそだらけ」という訴えはそうした社会への一里塚的意味を持って見えるものと、私には思えて来たりする次第である。もちろん、これは一事例であって、ほかにもインターネットによる双方向性の情報システムは働き、功罪こもごも社会、或いは文化の形成に大きく関わって来ているのがわかる。 写真はイメージで、闇にともる灯の夜景。