大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2016年09月12日 | 植物

<1718> 余聞・余話 「小さなものたち」

         生きるとは如何なることかあるは虫 小さな虫の小さな命

 花に虫たちはつきもので、山野に花を求めて歩いていると、花に虫たちが来ている光景によく出会う。よく見かけるのはチョウやハチの類であるが、花によってはもっと小さなミリ単位のアリとかクモとか、また、アブとガガンボといった虫たちも来ている。チョウやハチに比べ、これらの小さな虫たちは歩いている私の目には止まらないことがほとんどで、花にカメラを近づけ、ファインダーを覗いてピントを合わせて初めて目に入って来るといったところがある。そして、小さいは小さいながらに一つの領域(世界)で生を営んでいることが知れ、自然の姿というものが改めて感じられたりする。こうした花と虫たちの光景は大概が持ちつ持たれつの関係にあって成り立っているのがわかる。

 人間から見れば、これら小さな虫たちは極めて微粒な存在で、取るに足らない、なくてもよいようなところがあるが、そこに咲く花には重要なパートナーとしてなくてはならないことがその光景の中には読み取れる。そして、それは人間の世界と同じく、自然の法則の中で生きているということが思い巡らされる。『パンセ』の中でパスカルが言う「宇宙は私を包み、一つの点のようにのみこむ」ことからして言えば、人間がこれらの虫を見れば、虫は微粒であるが、広大な宇宙からすれば、人間も虫たちもあまり変わらない五十歩百歩の存在であることが思われたりもする。

       

 同じ地球上にあって太陽の恵みを受けて生きている生命体であれば、人間の喜怒哀楽のようなものがこれらの小さな虫たちの個々にも、また、これらの虫たちをパートナーとする草木の花たちにも似たような感覚があるのではないかということが想像されたりする。花の下でランデブーに勤しむ小さなクモには喜びの時に違いないというふうに見て取れたりする。私たちに今があるように、この小さな取るに足らないようなクモにも今があり、命を張る今をもって明日が待ち受けている存在であると思われたりする。そして、花にやって来る小さな虫たちは自分たちの世界で今を懸命に生きている。その懸命が花たちの生きている力に貢献しているということがカメラの目からは察せられる。

 草木にとって花は未来への希望である。その希望を叶えるのに幾ら小さくてもそこに虫たちの存在と活動がなければならない。これが自然の仕組みの中で、展開する営みの様相である。小さな虫たちが来ている花を撮影しながら蜜で花のもてなしを受けている虫の持ちつ持たれつの立場が自然の中に組み入れられていることに私はいつもながら気にいった光景としてカメラを向けている。こうした光景に出会うと、「生きとし生けるものに万歳を」と言いたい気分になる。

 写真は左からイヌツゲの花に来ているアリ、コアジサイの花の下で恋を育むクモ、コミヤマカタバミの花に纏わりつくクモ、アケボノソウの星の花の蜜腺から蜜をもらうアブ。肢が雄しべや雌しべに触れている。これらの小さな虫たちはみな花粉を運ぶ役目を負っている。所謂、持ちつ持たれつの関係を花との間に交わしている。