大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2016年09月07日 | 植物

<1713> 余聞・余話 「植物の根に寄せて」

         誰もみな心の根っこで自らの生きとし生きる身を支へゐる

 植物の葉に触れたので、根にも触れないでは不十分だろう。という次第で、今回は植物、即ち、草木の根に触れてみたいと思う。『国語辞典』で植物の「根(ね)」の語意を探ってみると、「葉・茎(幹)と共に、高等植物の基本器官をなすもの。その植物を支え、水分・養分を吸収する(普通は地下にある)部分」とあり、この意を基にして「事物のもと(の部分)」をもあげている。

 例えば、根本、根底、根幹、根源、根拠、根性等々、これらの言葉は植物の根の意より発して生まれたことが見て取れる。「根も葉もない」というのは植物から来ている言葉で、実体がないという意味である。言わば、植物の根というのは植物自体を支え、水分や養分を吸収して植物本体の維持、成長を果す重要な役割を担っているということになる。

 鉢植えの、例えば、サルビアが花を終え、植え換えをする段になって鉢の土を取り出してみると根が鉢の内側に沿ってびっしりとついているのに驚かされることがある。全ての根を合せるとどのくらいの長さになるのだろう。それは人体の毛細血管と同様、想像以上に長いのだろうと思ったりする。そして、土はと言えば、水分も養分も根に吸い取られ、かすかすになっていてこれに向い合うということになる。この現象こそがまさに根の働きを物語るものと言える。

              

 夏場になると鉢植えの植物は水分不足で枝や葉が萎れることがよくある。こういうときは水遣りが欠かせないが、水を遣るとものの十数分も経たない間に葉がしっかりし、植物は元気を取り戻す。これは根が水分を吸収して植物本体に供給した結果の現れにほかならない。水や肥料をあまり遣り過ぎると、水分や養分が過多になり、根腐れを起こして逆に枯れてしまうことがある。つまり、植物の根というのは、目立たないけれどもそういう自分の命の根幹のところを担って働いているわけである。

 樹木の根は樹木の本体を支えるため樹木の大きさによって根の張り方も変わるのが山歩きをしていると見られるが、幹の太さや高さもさることながら、枝の張り具合によって違いが生じると言われる。スギやヒノキのような高さを誇る針葉樹よりも枝を張るブナやクスノキのような広葉樹の方が根も広がり伸びる。これは風雪に関わることで、この風雪に耐える樹木の仕組みの現れと言ってよかろう。

 草花には花が咲いて実が出来ると、後はその実に全てを托し、枯れてしまう1年草や2年草がある。これに対し、花が咲き、実が出来ても、本体は枯れずに残る多年草がある。地上部が枯れるにしても根によって冬の寒い時期を凌ぎ、春になるとその根の部分から新芽を出し、また、成長して花を咲かせ実を生らせる。多年草はこれを何年も繰り返す。多年草は根に栄養分を蓄えて休眠するので宿根草とも呼ばれるわけである。

 とにかく、根は植物の本体を支え、水分や養分を吸収する土台をなす植物の基礎部分に当たる。人体に擬えれば、下半身か。花は表象、葉は実質ということで言えば、根は何だろうと考えるに、基盤という言葉が思われて来る。植物の根というのは縁の下の力持ちである。

  紀伊山地の山々を歩いていると、ときおりブナ帯で林床を被うスズタケやミヤコザサが失われ、地表があらわになっているところに出くわすことがある。これはシカの食害が起因していると言われるが、こういうところでは露岩も見られ、集中豪雨などが起きると、スズタケやミヤコザサによる保水や地表の保護がなく、雨水は一気呵成に流れ、直接山肌をえぐったりして大災害の因になる。これは植物の(殊に根の)効用を失った山で起きる現象と言える。根というものは大地をしっかり掴んでいるので、水の災害を防ぐ働きもしている。この点も忘れてはならないところである。

  写真は左から大地にしっかりと根を下ろすナギ、ツクバネガシの根の部分に守られながら花を咲かせるタチツボスミレ(ともに奈良市の春日山で)。根こそぎ倒れた風衝地の樹木。台風に見舞われた被害木の一つである (十津川村の釈迦ヶ岳登山道の尾根筋で)。